事実
六車郷
2013/01/22
原田神社境内銅鐸出土遺蹟というのがあり、
そこから出土されたものを納めた文章に面白い記述がありました。
原田神社境内内発見の銅鐸は昭和23年になってその存在が注目されたもので、これを納めた木箱の裏蓋には寛政3年(1791年)に書かれた箱書きがあって、発見の年時と場所などを知ることができる。以下に三車郷とあり、六車郷付近もしくは中にあるのが気になるところです。なお、三車の郷とは轟の文字にちなむ郷名で、もとの南轟木・桜塚・新免などの地域と想定されるとのこと。
書古風鐸
摂津国豊島郡三車郷金寺千坊者天平年間行基所創建而建武延元之兵乱罹回録後置原田神祠山林数百畝老松千株今尚矣天明辛丑之年村民遇堀地所得風鐸在枯松之根底其数二口○於諸市一蔵坂都木田家一蔵某家其色青緑其音清越天平年間距天明辛丑千有余歳一旦変換煥然復出人間嗚呼奇哉古人曰植実心千歳松夫之謂与
寛政三年辛亥之冬
其録
出典:豊中市史より
■2012/08/16 追記
六車郷だったと思われる場所を散策。普通の住宅街なので、昔をしのぶものは何一つありません。しかし、ここに六車郷があったという事実が何よりうれしいです。
なぜかここにも轟という文字が!群馬といい、やはり車持部と何か関係あるのでしょうか。
2012/02/11 追記
「大阪府の地名1」によると、垂水西牧北郷に属し、原田郷とも呼ばれ、現豊中市中西部に位置し、近世の村名でいえば原田・岡町・桜塚・走井・曾根・福井・岡山の各村にあたるそうです。
1097年(永長2年)、伊勢神宮役夫工使に濫行したなかに六車庄司季正ら同庄の住人がいて、明法博士の勘申により赦免されたが、関白藤原師通の連絡を受けた父の師実は、役夫工米徴収の難渋する摂津の諸庄について人々に談合を命じており(「中右記:2月6日・19日・20日条」)、初期には垂水西牧に属さない六車庄として成立していたと考えられると書いてありました。その後、千里丘陵と縁辺の摂関家領垂水西牧の庄園化とともに併合され六車郷となった模様。
1183年(寿永2年)、近衛基通から奈良春日大社に寄進され、本所が近衛家、領家は春日大社(興福寺)に。1265年(文永2年)6月頃、下司が春日社家の命令に服さなかったためか、社司らが本所近衛家に列参して前任者の還補を要求したが聞き入れられず、8月に入ると興福寺衆徒の要請で三方神人が発行して下司を追放(「中臣祐賢記:8月6日-15日条」)しました。
8年後の1273年(文永10年)には、住人資持が神木を汚穢し、時期からみて作毛に関することのようですが、神人発向の力による春日大社の支配強化はかえって住民の反発を招いたようです。
1375年(永和元年)、春日社神供料の六車郷と萱野郷の続松料足などが近衛家から社家正真院家に寄進(至徳元年4月23日「近衛兼嗣御教書案」春日大社文書)。1381年(永徳元年)には、自徳奉行分が春日神供料所として勧学院別当から、それ以外の春日神供料所分の支配権が近衛兼嗣より、正真院経有宛に行われ、それぞれについて1384年(至徳元年)には近衛兼嗣より、1411年(応永18年)には勧学院別当より、1444年(文安元年)には近衛房嗣より、正真院家に安堵の御教書がだされ、全領主権が春日社に集中し、垂水西牧北郷の牧務職を中東家・正真院家が世襲するようになったのは南北朝末期との考えられるそうな。また、これ以降から原田郷とよばれることが多くなるが、康正2年造内裏段銭并国役引付の「春日社領摂州六車原田段銭」のように併記されることもあったようです。
参考:大阪府の地名1
2012/01/25 記述
春日大社の所有の平安期からある荘園の名前だそうです。現在の豊中市にあった模様。「中右記」1097年(承徳元)2月6日条に「摂津国六車庄住人事」とある。「中臣祐賢記」1265年(文永2年)8月6日条によると六車荘荘司季正や住人が伊勢神宮造営料徴収のための役夫工使に対して、濫妨を行ったため赦免しようとしたらしく、六車郷下司を追放したとのこと。
その後、1344年(興国5年/康永3年)頃には、原田兄弟が国人としている記述があり、このころより原田郷に変わっているそう。下記地図は、原田神社の位置です。昔はこの一体が、垂水西牧北郷だったとのこと。
参考:六車郷-apedia
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