「六車」はどこから来たのか。自分の苗字を探す記録。

事実

六車御稲田

2013/03/03

御稲田(みいねた)とは、朝廷の毎日の食事の費用を賄う所領で、12世紀以降は大炊寮という官庁の長を代々世襲していた中原家の所領となっていた。毎日の食事という朝廷にとって必要不可欠の費用を賄う所領であったため、大炊寮以外への納税義務はなかった。また、中世には、摂津・河内・和泉・山城4ヶ国内に小面積づつではあるが多数散在していて、九世紀ごろにこの四ケ国内に設定されていた、宮内省の供御稲を納入する省栄田の系譜を引くと考えられている(橋本義彦「平安貴族社会の研究」)。

六車御稲田については、南北朝の中原師守の日記である「師守記」に資料が残されている。垂水西牧加納六車郷と時期的に併存する所領なので、南北朝時代には在地領主の年貢抑留に悩まされていた。

六車御稲田の年貢は、米や金銭などで納入されており(1339年(慶応2年)12月19・20日条など)、その他公事に当たる正月餅・若菜・粽・菖蒲・盆供が、必要な時期になると中原家に納入されていた。こうした年貢・公事の輸送は、南北朝前期には問(問丸)と呼ばれる流通業者が担っていた(暦応3年5月1日条など)。そのほかに公事として焼米・吉書粥子用途・神祭魚料も納入されていたが(暦応2年10月19日条など)、これらは南北朝後期になると記事に現れなくなる。貞治年間(1362年~68)になると、それまでの間に代わって請負代官が見られるようになり、このころの代官は神崎(尼崎市)を拠点としていたことがわかる(貞治元年12月4日など)。神崎を拠点とすることからみて、この請負代官も流通に携わる人物であった可能性が高い。

大炊寮などの朝廷の役所の経費を賄うための所領形成は、12世紀後半を中心とする時期に、国衙から必要経費額に見合うように、土地に対する徴税権が譲り渡される形で進められたことがわかっている(勝山清次「中世年貢制度立史の研究」)。ただし、御稲田については、もう少し早く、11世紀後期に朝廷によって所在地が決められ、耕作者として供御人が置かれるようになったと考えられている。六車御稲田も、こうした11世紀後半以降の動きのなかで設定された所領の一つと感がられる。

出典:豊中市史

2012/08/15 追記

伊丹空港

このあたりが六車御稲田だったと思われる場所です。スカイデッキから南の方を撮影しました。

浜町の田

浜町で撮影。昔は稲がたくさんなっていたのでしょう。

2012/02/11 追記

六車郷と六車御稲田はどうも別のものらしいです。大阪府の地名1によると、六車郷の近辺に大炊寮領六車御稲田(豊島御稲田とも言う)があったそう。内裏および東宮の毎日朝夕の供物を負担する料所で、供物米のほか粽・焼米、季節の鏡餅や小餅・菖蒲・粥料・若菜・神祭魚代などを貢進し、その運搬に問丸があたっていた(「師守記:慶応2年8月29日条紙背文書」)が、南北朝の動乱期に国人ら武士の蚕食を受けて衰退。御家人や足利直冬迎撃に参加した朝倉氏が違乱を働くなどして、宮中行事のための仕女役芋次が半分しか沙汰できず、南北朝記にはほとんど実態を失ったとのことでした。

参考:大阪府の地名1

2012/02/05 記述

豊中市にあった荘園に椋橋荘・利倉荘・六車御稲田などがあったそうです。1086年くらいからの院政期には、豊島地方の山野は多く藤原氏の私領に。藤原氏の氏神春日大社とも密接に結ばれたそうな。1183年の源平争乱時に、氏長者の近衛基通から春日大社へ寄進されたのが垂水西牧で、その北郷に属したのが六車郷です。六車衆が追放された後に原田という名称に変わり、現在も名残があるところを見るとこのあたりが「六車御稲田」だったのかもしれません。


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参考:豊中市の歴史の歩み

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