「六車」はどこから来たのか。自分の苗字を探す記録。

事実

続安富さんへ

2014/01/25

その後、加西市史を調べてみると安富講についての記述がありましたので、共有させて頂きます。「故あって」とは何があってどこから来たのかが無性に気になりますね。

調べてみると安富刑部太輔親豊が武士として活躍していそうな天文年間に尼子氏が播磨攻めを行っているので、周布氏系の安富氏の可能性(大内氏→尼子氏)が0では無い気もします。その際の戦闘で無常を悟り帰農したのでしょうか。「やすとみ」から「あとみ」に読みを変えたのも、ひょっとしたら「むぐるま」と「ろくしゃ」の読みの違いくらいのものだったのでしょうか。色々気になります。ちなみに、もう少し年代が下ると豊臣秀吉に制圧された豪族が帰農したということは加西市史に書かれていました。

安富講

畑町の安富(あとみ)姓の講頭の家に、安富姓二十一軒と松下姓一軒の門人が集まって、安富一族の始祖である安富刑部太輔親豊の法要を営む。親豊は故あって武士より帰農してこの地に住み、安富家を興したと伝えられ、1551年(天文20年)1月17日に死去した。この命日に「備前長船清光 天文20年8月」の銘がある刀を出して床に設けられた神棚に安置する。そばの仏壇には酒見寺の住職が新しい塔婆(宝光院閑月道休居士 無上菩提也)をたて、読経される中で全員が焼香する。終わると全員揃って一門の墓地へ行く。一門の墓制は講頭家の上の山中に石塔のある詣り墓と、地区の入口に死者を埋めた墓がある両墓制であった。埋め墓は1797(寛政9年)に門人が建立し、昭和18年に再建された親豊の墓碑があり、その前で読経をし、水かけのの供養をして墓での法要は終了する。現在この一門の墓制は、詣り墓より埋め墓に各家の石塔が移り、火葬で石塔の下に納骨をする単墓制に変わっている。

全員揃って講頭の家に帰り、刀を囲んで一門の者が酒を飲みながら歓談する。刀が納めてあった講箱は蓋の裏に「文政七年申三月箱改入」、箱の底には「安富刑部太輔親豊子孫 市太夫 三右衛門 三兵衛 吉太夫 多七郎 七兵衛 小右衛門 武兵衛 佐左衛門 善右衛門 忠兵衛」とある。箱の中には刀と一緒に1824(文政7年)より昭和32年までの帯刀祭講帳などの文章が入っている。

1890(明治23年)、講中の規約を記した文章がある「凡そ事一体に係る事件は、何事にても一門熟議をとげ、幸福を謀ることを務めとする」「一門のうちの不幸がある時は、講中で必ず援助をおしまぬこと」など、一門の親睦を旨として相互扶助を計ることが記されている。この安富講とも呼ばれる刀講は、講頭のもとに21年目毎に廻ってくる講人と11年毎にする2人の世話人と門人より成り立っている。現在、この地に住んでいなくても1月17日には帰村し、始祖を祀り、一門の親睦と相互扶助を目的とした講が健在である。

出典:加西市史

コメント

  • 情報ありがとうございました。
    加西市史まで調べて下さったんですね、ありがとうございます。
    「一門の墓制は講頭家の上の山中に石塔のある詣り墓」は、おそらく私の実家の裏山にある先祖の墓のことだと思います。

    私も色々調べた結果、大内氏もしくは大友氏系だという気がしています。

    「安富・安冨一族」によると、多々良姓大内氏を源流とする安富氏は大内弘成の弟貞盛、その子 備後守宗貞の子孫であるとの記述がありました。家紋も記されており、剣片喰に似た家紋でした。
    そして安富刑部太輔親豊の「親」は大友氏の通字なんですよね。大内氏と大友氏は互いの家督について干渉しまくっていたようなので(笑)、大友氏の通字が大内氏の家系に使われてもおかしくはないと思います。

    さらに親豊という名でググると、大友氏17代当主大友義右がヒットします。
    http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%8F%8B%E7%BE%A9%E5%8F%B3
    大友義右の初名が親豊で、父政親と対立して母方の伯父大内政弘を頼って家出したりしてるんですね。
    これは妄想ですが、ひょっとするとこの大友義右が安富姓を受けて帰農したのでは?と今は思っています。
    父政親に毒殺され大分市大智寺に葬られたと伝えられているそうですが、墓は現存しないようなので、ありえなくはない話だと思います。(没年が1551年だと考えると、100歳くらい生きていることになりますが(笑) 1551年は大内氏滅亡の年なので、安富刑部太輔親豊は大内氏に出奔した大友義右の子、なんて可能性もあるかと。)
    あと裏山の墓地には石の洗面器のようなものがあるのですが、これは殿様の洗面器だと祖母がよく言っていたのも、そう思い込む理由だったりします。

    加西市史にある「故あって」というのは、義右の父との対立のことを指していたりしないでしょうか。そうやったら面白いのになぁ(笑)

    投稿者 あどみ
  • あどみさん
    こんにちは!

    私も通字の件で、
    讃岐の紀姓安富氏(「盛」)とはちょっと違うと思い、
    石見の安富氏の説が正しいのかもと思っていました。
    すると、大友氏とは!オモシロイですね。
    また、殿様の石の洗面器というものが伝わっていようとは!

    確か加西市史に京都の公家のお姫様を護衛して下る途中、
    加西市近辺でお姫様が亡くなって、護衛のものが鎮魂のために、
    遺品を祀った神社をつくり、一族で住み着いた話が書いてありました。
    土着する理由も様々なんだなと勉強になりました。

    投稿者 muguruma
  • はじめまして。私の祖父が畑町出身で私の本籍も結婚するまでは加西市畑町でした。
    色々安富家のことに興味深いのでまた教えてください!

    投稿者 渋谷区 安富
    • ありがとうございます!

      投稿者 muguruma
  • 以前にご連絡させていただいた安富です。
    亡き祖父母が畑町で、畑一帯の広大な土地を所有していたこと、本家及び一族で刀納め行事をしていたこと、武士から農民になったと聞かされていたこと等、ずっとルーツが気になっています。
    亡き父が若いとき、大阪の歴史家の先生にルーツを調べさせてほしいと言われ、源氏だか平家だかと言われたという話しも気になっております。
    私にも子どもがおりません。姉妹、従兄弟を墓守り

    投稿者 Y.安富
  • こんにちは。かなり以前にご連絡させていただいた者です。
    亡き祖父母宅は畑町で、昔畑町一帯の広大な土地を所有していたこと、本家、その一族で刀納め行事をしていたこと、亡き父が昔大阪の学者さんにルーツを調べてもらい源氏だか平家だかと言われたと言っていたこと等が気になっています。私には子どももおらず、本家の長男も独身で、先祖の墓守りも途絶えそうです。
    何か知れることがあれば知りたいと思っており、またアクセスさせていただきたいと思います。
    多大な労作業のご研究と開示をありがとうございます。

    投稿者 Y.安富
    • Y.安富さん、こんにちは!
      お返事が遅くなり、申し訳ありません!

      こちらこそありがとうございました!
      現在は居住地を移したため、もう調べることが出来ないので、ブログを更新できませんが、
      必要な情報がこのブログにあったら嬉しい限りです。

      投稿者 muguruma