「六車」はどこから来たのか。自分の苗字を探す記録。

事実

六車荘(庄)

2013/03/08

豊中市の方に問い合わせをした結果をお知らせします。以下のようなお返事を頂き、六車姓が六車郷と関係しているのか、疑問に思えてきました。すなわち、車持氏との関係も実はないのではないでしょうか。ひょっとしたら六車姓は戦国時代以降に使われた可能性があるやもしれません。

「摂津国豊島郡の六車郷(六車荘)は、現在の阪急宝塚線曽根駅・岡町駅周辺から大阪国際空港(伊丹空港)の南端付近にかけて広がっていた荘園です。文献史料には、『中右記』永長2年(1097)2月6日条に初めて登場します。当初は摂関家領でしたが、平安時代末に領家職は春日社に寄進され、戦国時代に至るまで興福寺・春日社が支配いたしました。

『新修豊中市史』通史一でお調べいただきましたように、室町時代後半に寒川氏が現在の豊中市中部付近に進出し、土地権利を多数もっていたことが確認できます。長禄4年(1460)12月日春日社一同起訴状案(春日大社文書)から、管領兼摂津守護細川氏の被官である寒川氏が六車郷の一部に関与していたことがわかります。また、文明11年(1479)垂水西牧八名分指出帳(今西家文書)からは、寒川氏が同じく細川氏被官内藤・安富氏らとともに、南郷(榎坂郷、阪急服部駅~大阪地下鉄御堂筋線江坂駅付近)に複数の名主職をもっていたことがみえます。

さて、摂津国豊島郡六車郷と六車姓の関係ははっきりとはわかりません。室町時代に六車郷を拠点としていた国人は、原田城の原田氏がみえる程度で、豊中市域全体の中世史料を見渡しても、六車姓はいまのところ確認しておりません。また、古代の車持部は『新撰姓氏録』摂津国皇別の項に、「車持公 同豊城入彦命之後也。」とありますが、六車郷と関係があるかどうかは不明です」

2013/03/03 追記

現在の原田付近にあった所領。1097年(永長2年)2月から3月にかけて、六車荘司が、朝廷から伊勢神宮遷宮の費用を徴収するために派遣された使者に濫妨を行ったことを示す記事が残されている(「中右記」)。のちに垂水西牧の加納としての六車郷が見えるようになるが、十一世紀末のこの時点で加納が成立していたかどうかは不分明である。六車庄は、西牧加納の基礎となった荘園の一つであった可能性が高いが、詳細は今後の検討にゆだねたい。

出典:豊中市史

2012/08/16 追記

垂水西牧の南郷目代を務めていた一族が800年に渡ってこちらに住んでいるようです。六車郷から六車庄庄司季正が追放された時期に奈良からこの場所に下向したそう。今も現存していることから追放した側と追放された側としての関係だったら因縁深いなと思ったのですが、六車庄が北郷に属することから、それほど関係ないのかもしれません。

今西家屋敷

今西家屋敷
今西家屋敷
今西家屋敷
今西家屋敷

2012/06/02 追記

六車庄は垂水西牧に属していなかったが、千里丘陵と縁辺の摂関家領垂水西牧の庄園化とともに併合され六車郷になったようです。

2012/01/31 記述

六車郷と同一です。平安~室町期に記録があります。六車郷の下司が春日社に非協力で、三方神人8人に追放されました。元々は藤原家のものだったようです。ここのくだりで興味を引くのが、寒川氏という名前が出てきます。寒川氏は讃岐にも出てくる名前なので、「むぐるま」が讃岐に多い理由と関係があるのではないかと睨んでいます。

参考:JLOGS|大阪府|豊中市|六車荘(中世)

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