「六車」はどこから来たのか。自分の苗字を探す記録。

仮説

六車氏の変遷についての推測

2012/12/09

古代

やっぱり、車持氏と結びつきませんでした。。

古代~平安時代

この頃も「六車」姓の確たる証拠がありませんでした。。

鎌倉時代~室町時代

応仁の乱後に安富氏の勢力が畿内から剥落した後に讃岐で「六車」姓が出てきた気がします。

戦国時代

六車宗湛が教興寺の戦いに従軍した後、雨滝山に籠城。
降伏し、長宗我部元親に城を託された後、
豊富秀吉に城主を解任され帰農したという事実があるようです。

2012/12/09 記述

六車の移動

六車がどこから来て、四国にたどり着いたのか。これまでに寄せられたものや調べた情報から推測してみました。

古代

南牧村「六車」の由来は異なるようですが、戦国時代の話なので、それ以前は不明のようです。車持氏と関係があり、そのお膝元に名前が残る「六車」も偶然じゃないのかもしれません。六車氏が移住した後も脈々と隠れ里として名前が受け継がれてきた可能性もあります。

古代~平安時代

古代苗字に「ろくしゃ」で記載されていたので、結構古い時代に車持部として摂津近辺の牛車の職人として住み着いたのでしょう。群馬から来たかどうかは、関連付けられる資料はないのですが、車持氏との繋がりから想像しました。上記が正しければ、六車郷という地名も苗字から地名がついたということになります。車持氏の支配力が落ちるに従って、職人から豪族化し、庄園を管理するようになったのではないかと思っています。

鎌倉時代~室町時代

この頃から原田氏の勢いが強くなり、六車氏は刃が立たなくなり、土地をほぼ奪われたのではないでしょうか。土地の名前も徐々に「六車」から「原田」に塗り替わったようです。

室町時代

小さくなった土地を守っていた時に、寒川氏が細川氏の代官として六車郷を支配。その時に六車氏は臣従したのか、寒川氏とともに讃岐に渡り、白鳥町で暮らすように。曹江山六車氏家系図では、応仁の乱にも六車氏が参加しているのですが、前述とは辻褄が合わないので、そこは謎です。

戦国時代

宗湛の代で白鳥町から富田中に移り、その際に家紋も「六本源氏車」に変更したとのことで、寒川氏とうまくいかなくなったか、安富氏との交渉かで、安富氏に臣従したのでしょうか。ひょっとしたら、宗湛自身は安富氏から養子として六車氏を継いだのかもしれません。先祖は関東の豪族という言葉が安富氏もしくは紀氏を指しているような気もします。ただ、安富氏の出自であれば、長宗我部氏に降伏することなく玉砕していてもおかしくないため、ここも謎です。

コメント

  • mugurumaさん、立派な図入りと記事感心しています。有難うございます。鎌倉時代~室町時代・戦国時代まだしも古代~平安時代にさかのぼるとは、メジャ-級ですね、「源平藤橘」に行かないまでもマイナ-級と思つていたのが、私として、いや六車-族として準メジャ-級に昇格した様なものです。戦国時代・マイナ-級だけでも4千人程の家老が居たそうだから。次に家紋について、日本国の象徴で有る天皇家の家紋は「十六八重表菊」紋とされています。戦時の事に成りますが、インパ-ル作戦に参加した、日本軍で最強とされた師団が福岡県久留米で編成された菊兵団があります。この部隊の軍旗が軍隊でただ-つ菊紋です。久留米の市民グランドには、此の菊紋の記念碑が建立されています。私は-度だけ行った事が有りますが、その時は記念碑の認識がなく見ていませんが、朝早くから体操をしたり・ランニングをしているそうです、久留米には義弟が居るので行く事も有ると思うので、記念碑だけは是非見たいと思つています。では又

    投稿者 K、M
  • K,Mさん、ご連絡頂き、ありがとうございます!
    褒めて頂き、大変光栄です。

    これはあくまでも無理やり点をつないでるので、妄想の域をでません。
    ただ、そうであれば面白いのにという願望も含まれています。

    また家紋の件もありがとうございます。
    久留米の菊兵団のことは知りませんでした。
    地元だと旭川師団の話はよく聞きましたが、
    やはり歴史的に何かを刻むと名前は残るのですね。

    車持氏・車持公と六車の関係がハッキリしないので、
    そのあたりがつながる資料があると俄然ヤル気がでるのですが。

    投稿者 muguruma
  • 讃岐の寒川(さんがわ)氏は、寒川郡大領を世襲した讃岐公・凡直(おおのあたえ)の子孫ですから、関東とは関係ないでしょう。室町時代・細川京兆家の配下として活躍した讃岐の代表的武士のうち、綾北條郡、綾南條郡、香川東條郡(香東郡)、香川西條郡(香西郡)に勢力を張った香西氏(国衙の在庁官人であり綾郡大領を世襲した綾氏の娘と国司藤原家成の間に出来た子供を始祖とする讃岐藤氏の末裔)と大内郡、寒川郡、小豆郡に勢力を張った寒川氏の二軒が土着勢力です。三木郡の隣・山田郡南半に居た植田一族も土着勢力ですが、戦国時代に阿波三好氏から養子を貰った十河氏が台頭するまでは、大きな勢力ではありませんでした。
    一方で三木郡に入った讃岐東守護代安富氏、鵜足郡・那珂郡に入った奈良氏、多度郡・三野郡・豊田郡に入った香川氏は関東の出自です。

    投稿者 alchemist
    • alchemistさん、今晩は!
      ご連絡ありがとうございます。

      誤解を与える書き方でスイマセン。
      寒川氏が六車郷を支配したくだりで、関東と関係ないとのご指摘だと思うのですが、
      六車郷(現在の豊中市近辺)を室町時代に細川氏より給地として与えられたようなんです。
      ですので、寒川氏は讃岐と近畿に勢力を持ち、
      六車氏がその縁で讃岐に移住したのかもという可能性を述べました。

      実際の所、そのあたりをつなげる資料に出会っていないので、
      もし、解れば面白いなと思ったのです。

      ただ、もしそのご指摘が、六車氏が寒川氏より分かれた家系だよということならば、
      これまでにない発見ですので、讃岐出自の家柄なんだと知ることができます。

      投稿者 muguruma