「六車」はどこから来たのか。自分の苗字を探す記録。

事実

雨滝山合戦記

2012/03/13

2012/03/24 追記

帰農後の富田中村畠方検知帳の記載。
・弐拾弐石三斗壱升 宗旦分
・五石四斗弐升八合 又兵衛→長町氏からの養子、長門守朝政の子?
・弐石壱斗六升壱合 せい吉→息子
・四石弐斗三升六合 又左衛門→息子
・五石八斗七升三合 又市→息子
・六石六斗弐升三合 権右衛門御手作分→旧主安富権左衛門

旧主を匿うなんて人柄が偲ばれます。

出典:大川町史

2012/03/13 記述

「六車宗旦」で検索をかけると「津田町史」というものを発見しました。

いままで、「富田中」にしか意識が向かっていませんでしたが、「津田町」も「六車姓」と関係がありそうです。最後の方ではここから六車が広まったと書いてあるように見えます。

慶長七年(一六〇二)より寛政十三享和改元の歳(一八○一)に至りて凡二百年、今古の藐たる此書記未だ亡びず存して幸に富田中村政所有馬右衛門三郎家にあり。故に請求めて以て書写し我家の蔵書となすのみ。此有馬氏は邑里の豪にして生駒君当州の主たる時より御当家九代の御治世に及ぶまで村吏の職を勤めて絶えず、誠に旧家というべし故に古書の家に伝うるもの亦少なからず。

斯に六車左衛門太夫後宗旦と称するものあり。我九代の祖にして本州雨滝山の城主安富家の長臣也、天正年間土州の牧長曽我部秦元親四周の間に横行す。十河安富等勢弧弱にして独立し難く、因って織田信長を頼みその家系を存せんことを図る。故に安富筑前守盛方(註年代あわず肥前守盛定ならん)、播州姫路にゆきて羽柴筑前守を頼み信長公へ通じ、息男安富権左衛門を貭として羽柴氏に託す。曽て羽柴氏も亦筑前守なるを以て、自ら肥前守と改名し専ら織田家の旗下と披露し、深く織田君の四州を征せんことを願うや大旱の雲霓を望むが如し。

然る所天正十年信長公明智光秀が為に亡び給い、羽柴公其跡をつぎて天下の武将たりと雖も、四方擾乱其治四州に及ぼさず。是に於てか四州の諸将大いに力を落す。元親そのすきを窺い愈々四州を蚕食す。仙石権兵衛秀久羽柴公の令をうけて、引田の城に入り其威を逞うすと雖も勢元親にしかず。

元親と引田中山に戦い仙石権平討死し其軍敗績す。夫より海辺によりて土佐方の香西家の旗下古高松喜岡の城を攻む、城主高松氏香西家の加勢片山志摩唐人弾正、真鍋弥介等固く守って城落ちず、秀久退きて軍を小豆島に屯し十河安富を助けんとす。是時に当って漸く土佐方に降らざるものは、虎丸に十河民部少輔存保、雨滝に安富肥前守盛方、終に節を守って風前の灯にひとし。

盛方一旦上方に属し殊に息男貭として姫路にあれば今更変更して土佐方に帰伏し、貭を棄つるに忍びず、進んで敵を敗り退いて城を保存すること能わず、存亡須叟にあって誠に針の蓆に坐するに等しからんか。盛方、長臣宗旦をして雨滝の城を守らしめ、小豆島に退きて仙石氏の軍に入りて保す。

時に天正十一年、元親大窪越より十河存保が虎丸の城を攻め、五月五日より雨滝城に取懸る。宗旦是を防いで城中に立籠る。元親巡見して曰く此城険にして仲々人力を以てしては取がたからん。高山の事なれば唯水道を塞げば独り自ら敗るべし、則ち人をして水道を守しむ。

是に於て城中大いに困窮す。宗旦家人に令して馬を出さしめ敵の望み見える処にて、白精米を馬の背よりそそぎかけしむ。そのさま湯にて馬を洗うが如く、敵を欺き水に自由なることを示すと雖も敵愈々進みて退かず。貳師将軍が徳無ければ梅酸の口渇を濕すより外なし。士卒苦しみ労れて用いる所なきを見て、宗旦降を乞て土佐方に伏し雨滝の城を守る。是全く宗且恣にするに非ず、盛方上方を憚り恐れて自ら小豆島に遁れ、宗旦をしてひそかに土佐方に伏さしめ、運を両端に待ちしならんか。

天正十三年豊臣秀吉公四州征伐に及びて土佐元親力及ばず遂に上方に降す。豊公賜うに土佐一国を以てす。仙石権兵衛秀久に讃州を賜り聖通寺の城に入り、内二万石十河存保に賜り、十河の城に入る。その余歴代の諸旧家近年土佐方に従いて家を失わざるも、是時に至りて始めて亡び血食せざるに至る。豈嘆嗟せざるべけんや。

天正十四年九州島津陣起りて仙石秀久十河存保九州に進発す。讃州の諸将安富肥前、寒川七郎、香川、香西皆、仙石を主将として打立てけり。同十二月十二日豊後利光川の合戦に仙石その謀を失して上方勢大いに敗績し、香川民部少輔、羽床弥三郎、十河、安富等悉く討死す。

仙石は直ちに高野山へ没落し讃州は尾藤甚右衛門尉に賜る。可惜哉此戦もし上方勢勝利あらば讃州の諸将も亦高名を顕し豊公の御感に預り、家興すものもあるべし。鳴呼家運の衰えたること斯の如し。慨然たるの甚だしきに非ずや。

盛方の息権左衛門はその後黒田如水豊前中津十二万石を賜り入部する時従いて行きけるが、如水賜うに三百石を以てせんとといいけるに、右権右衛門母は阿州篠原弾正入道紫雲が女なれば、陪臣の秩を食むことを快とせず、故に退きて由縁あれば、まず京都本願寺にゆきて、其時の至れるを待たしむと。此事載て方策にあり、敢て余が贅言に非ず。

当州諸旧家の子姪或は生駒家に仕へ或は他州にゆきて仕途を失わざる者亦少なからず、独六車宗旦は節を屈して二君に仕うること好まず、且乱世の反覆人心の無恒を厭いしにや、田を求めて農事をいとなむ事、此書中に於て炳焉たり。古より名達の士市朝の喧を厭い跡を田畝の中に暗うせし事挙て数えがたし。然してより子孫綿々として当村に住居し農を業として僅に口を糊するもの、其支流を数うに幾十家なるを知らず。又他州他村に間々六車と称する者あり、是や宗湛の子に又左衛門、又市、清吉なる数子あれば其子或は其孫他州他村にゆきて六車と称するならんか。我家は祖とするは又左衛門也、それ以来又左衛門通称として二三代も称し来れり。

出典:津田町史- 津田町史編集委員会編(S34.2.10, 津田町教育委員会発行)より -


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