「六車」はどこから来たのか。自分の苗字を探す記録。

事実

脇町史-曽江山7人衆に六車の名前-

2013/08/17

大川町史に記載されていた曽江山家系六車氏の話を思い出し、曽江山を調べました。徳島県の脇町という場所で、現在の美馬市になります。最初は上下巻の本巻の方を探していたのですが、六車氏についての記述はありません。念のため別巻というものを見ていると六車氏の記述がありました。


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曽江名地区は、下曽江北、下曽江南、中曽江、上曽江、貞安、新田からなります。添山とも呼ばれました。源平の戦いに敗れた平氏は四国方面に逃れてきた。その時、共に従ってきたのが正木勇連とその一党。南北朝時代楠木正成の家臣・篠原宗官と家来の藤川道慶、麻植因幡、阿瀬比宮内、出葉幸兵衛、六車宗旦、同弥七の7人衆が金川地区にきたり、その子孫が東俣から曽江谷川を下って、地形がゆるやかな傾斜地になっている貞安・吉竹地区に住み着き、斜面を開墾して田地を造ったと語り伝えられている。

金川地区から来たということで、金川地区を調べてみると以下のようになっています。


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東俣名地域は、御所野、古屋敷、金川、冬畑、阿串、椚野からなります。東俣名(御所野、古屋敷、金川、嵯峨野)は、東俣谷川の源流域で、約1100年前、嵯峨野天皇が讃岐から行幸された際、この平和な郷で休息されたと古老から語り継がれている。また、保元の乱で崇徳上皇が讃岐から東俣名にこられ、その家臣団・郎党がこの地に居住したことは、三笠家の古い墓碑等から推測することができる。金川地区は約800年前、源平の時代に篠原宗官が一族郎党曽江山7人同志を連れてこの地に移り住んできたことは、七社神社の起源として伝えられている。

七社神社(金川)

主祭神 大山祇命、草野姫命、久々能智命、埴山姫命、豊受姫命、水波売命、志那都比売命
例祭 10月12日
主要建物 本殿、幣殿、拝殿
由緒 安政年間の建立といわれており、左甚五郎の作といわれる犬の彫刻がある。曽江山七人衆の一人篠原宗官も合祀されて、七社大明神と呼ばれていた。

南北朝時代に楠木正成の家臣の家臣に六車宗旦と六車弥七という人物が出てくることになります。事実であれば、戦国時代以前に六車が出没したことになり貴重な資料ですが、他の6人を検索で調べてみると麻植因幡が戦国時代の人として検索結果に現れます。ということは、六車宗旦も戦国時代の人で、しかも六車の別人と宗旦の名前がごっちゃになったような印象です。そういう意味では、六車弥七という人物の出現はこれまで初めてで、徳島六車氏の祖である可能性がありそうです。

出典:脇町史

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