「六車」はどこから来たのか。自分の苗字を探す記録。

仮説

六車氏の変遷の推測

2013/05/27

これまで調べた結果によると六車氏には武士と製塩業の2系統があるようです。間違いなさそうなのは、源氏六本骨車の家紋は武士の六車氏。製塩業の六車氏は生駒治世に白鳥へ赤穂から移住し、その財政的功績により六車姓を生駒氏から授けられたものと推測しています。※本当にそんな出来事があるのかは謎ですが。

ひょっとしたら、大川・津田の六車氏は武士の系統で、大内・白鳥の六車氏は赤穂にゆかりのある製塩業の系統かもしれませんね。私の系統は製塩業だと思われるので、引田や赤穂も調査する必要が出て来ました。

2013/08/08 追記

下記に想像を巡らせましたが、現段階では応仁の乱後に四国に移って生まれた苗字かなと思っています。ただ、垂水西牧北郷に六車姓が存在したとわかる資料が出てくれば、状況は一変するかもしれません。

2012/04/07 追記

推測

何かヒントになるものはと考えたあげく、電話帳を思いつきました。その場所で暮らした痕跡が子孫として残っているかもしれないと思ったのです。そこで「むぐるま」「やすとみ」「ろくしゃ」で調べました。

豊中市

「ろくしゃ」が1件あるのみ。ひょっとして苗字分散説は間違っていないのかもしれません。

佐倉市

「むぐるま」が2件ありました。「やすとみ」は3件ありました。その他の近郊では名前が発見できなかったので、この一帯が関係あるのかもしれません。よく考えると首都圏への通勤圏なので、あとから入ってきた可能性もありますね。

姫路市

「やすとみ」が4件。「むぐるま」が1件。安富町があるので、多いのかとおもいきやそうでもありませんでした。

どれも全くマイナーな名前で、ほとんど記載はありませんが、目星をつけたところに記載があるのもひょっとしたらと思わずにはいられません。

2012/01/30 記述

色々調べてきましたが、もうなかなかネタ元に辿りつけないジレンマがあります。あとは伝承された文書に記載される話と照らし合わせるしかないのかもしれません。但し、これまで調査してきて推測できる部分はありそうな気がするのでまとめました。

変遷の推測

なぜ上図のように思ったかと言うと、その理由は下記です。
■地名由来の苗字であるならば、六車郷は一番可能性が高い。
■古代系姓に「ろくしゃ」で記載。平安期なので京畿内が前提。
→「六車」は初めて見る人は「ろくしゃ」と読む。
→苗字辞典にも「ロクシャ宗旦」と記載。なかなか漢字だけでは「むぐるま」と読めないため。
■関東の豪族という記述。安富氏と出会った可能性。
■下総埴生の地頭職に紀重満と記述。その息子、紀行義の後裔が安富氏。
■安富氏から分家した記載もあったが上記が成り立たない。
→安富氏から六車氏に養子に入った可能性はあるかも。

  摂津国 下総国 讃岐国



    1221年 安富盛長太郎左衛門尉、宇治合戦 鎌倉方顕軍功 賜る名馬    
1265年 六車郷の下司を追放        
1279年 能勢一帯に君臨した多田院御家人として、「多田神社文書」に原田氏が登場        



    1333年 安富太郎兵衛が足利尊氏から「播磨国三日月郷:西村荘」を賜る    
        1338年 安富氏が細川頼之に従って讃岐へ
    1374年 安富大蔵入道道徹、香取太神宮神輿帰座の使い    
        1487年 四国管領細川家に属し京都合戦戦功のあった六車左衛門尉信勝が亡くなる
        1521年 六車長左衛門尉景●が亡くなる
        1541年 六車長左衛門尉信景が亡くなる
        1557年 六車太郎景成が亡くなる





        1562年 六車宗堪が教興寺の戦いに参戦
        1570年

1573年
六車宗堪が富田城を引き継ぐ。六車城に(?)
        1572年 六車宗堪が雨滝城に移動
        1573年 六車左衛門時氏、秀吉公に供し備中高松城攻。太刀一腰賜。
        1576年 六車宗堪が西教寺に銅鉢を寄進
        1583年 六車宗堪が長宗我部家に攻められ降伏
        1593年 六車宗堪が亡くなる

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