事実
K,Mさんの家系図
2013/01/05
2013/01/05 修正
K,Mさんより詳細を教えて頂いたので、3代目以降の人名を追加しました。
2012/11/24 記述
k,Mさんより教えて頂いた家系図です。こういう風に六車の苗字が伝承されているというのがうらやましい限り。そして、雨瀧山之城主、安富左京亮紀之盛安は細川勝元の四天王の随一、大内郡、寒川郡、三木郡、山田郡、を統治するとあり、先祖、六車左衛門尉宗旦と記述があるとのこと。安富盛安とは、讃岐東方又守護代の安富左京亮盛保のことではないでしょうか。盛保が活躍している頃と宗旦が活躍している時代が若干異なるので、讃岐では盛安が有名だったと推測しています。応仁の乱で讃岐衆を率いて京都に昇ったのが盛保と書いてありました。曽江山家系図によると六車左衛門尉後改宗丹が応仁の乱で戦っている模様です。
K,Mさんの家系図
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- 六車宗旦
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- 三男六車彦助
- 次男六車七兵衛
- 長男(2代)六車又左衛門
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- 三男六車五左衛門
- 次男六車六兵衛
- 長男(3代)六車典右衛
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- 次男六車半左衛門
- 長男(4代)六車彦十郎
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- 次男六車利三右衛門
- 長男(5代)六車理三右衛門
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- 五男六車利吉
- 四男六車喜吉
- 三男六車謙多
- 次男六車実五郎
- 長男(6代)六車徳治郎
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- 次男六車庄吉
- 長男(7代)六車伊三郎
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- 三男六車金次郎
- 次男六車自光
- 長男(8代)六車伊平
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- 9代六車金次郎
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- 次男(10代)六車繁太郎
- 長男六車幾太郎
mugurumaさん、今日は、今年、最後となりました。系図・3代から10代迄の名前を参考の為、記入します。3代・典右衛・六兵衛・五左衛門、四代・彦十郎・半左衛門、五代・理三右衛門・利三右衛門、六代・徳治郎・実五郎・謙多・喜吉・利吉、七代・伊三郎・庄吉、八代・伊平・自光・金次郎、九代・金次郎、十代・繁太郎です。1、2漢字が違うかも?最後に成りましたが、良き年をお向かえ下さい。来年も宜しくお願いします。
K,Mさん、明けましておめでとうございます!
本年もよろしくお願いいたします。
名前の詳細、ありがとうございます!
ここまでわかるってやっぱりスゴイですね。
後ほど、修正したものをご確認頂ければと思います。
どうぞ、よろしくお願いいたします。
mugurumaさん、明けましておめでとうございます・今日まで「松の内」ですね。孫達も来て良し帰ってよしです、孫達のおかげで大笑いして楽しい正月でしたが、又老夫婦二人の生活に戻りました。
今年も宜しくおねがいします。
系図で1.2漢字が違うかも?と文章にしましたが、家内に見て貰うと間違いなかろうろうとのこと訂正なしです、楷書で墨汁なので簡単に書いた面も有り。次に私の説明が悪かつたのですが、例えば次男・三男とか書いていたのは、あくまで男子のみの二人とか三人を指していて女性は書いていません。したがつて八代までは長男に訂正して下さい。宜しくお願いします。次に名寄市に帰省され親孝行されましたね、名寄市は気温の落差が大きく冬は大変な雪だそうですね、でも北海道の都市で1番住みやすいとかデ-タで表示されていますね、屯田に失業した士族に仕事を与えるために明治7年に定められ、翌年 全道に先駆けて琴似に仙台・亘理藩、会津藩の士族200戸が入植、明治32年までに37村(約7000戸)約4万人が開拓の先兵となつたんですね。六車(ろくしゃ)の苗字が15戸ほど有るとのこと謎解きに頑張りましょう。
K,Mさん、こんばんは!
楽しい正月を送られて何よりです。
系図の件、ご確認頂きありがとうございます。
修正しましたので、ご確認頂ければと思います。
また、帰省の件ですが、実は現在札幌に両親が住んでおり、
10年近く名寄には帰ってないのです。
親戚に会いに行きたいと思うものの冬だと交通が不便で、
なかなか行けないというのが実情ですが、
生まれ故郷なので特別な場所であることには変わりありません。
そして、屯田兵の件もよく調べられましたね。
北海道には入植者の出身地を地名にするケースも多いです。
釧路市鳥取という住所があるのですが、
鳥取県の方の入植地だと聞きましたした。
その他だと、アイヌ語を日本語に転化した地名が結構あります。
名寄もアイヌ語でナヨロップの当て字で「川に挟まれたところ」だと
習った覚えがあります。
「ろくしゃ」姓もどのような成り立ちがあるのか知らないので、
「むぐるま」とどのように分かれたのか、個人的には気になります。
それでも、皆様からの情報提供で少しづつ事実が見えてきた気がします。
mugurumaさん、今晩は、修正有難う御座いました。pc・の達人ですね、直ぐに修正してしまい敬服です。次に私の系図はお陰げ様で、是で良しですが、十代・繁太郎(親父は次男)です、したがつて・本家の事を少し触れてみます。本家・長男は幾太郎で兄弟2人・4人姉妹で親父からすれば姉ばかり4人です。伯父は戦時中・神戸で窯元をしていて繁盛していましたが・神戸・大空襲で家も窯元も全てうしなつてしまいました。富田中に引き上げ・また窯元をやつていて昭和21・2年頃・親父と墓参に行った折には10人程の職人さんがいまして、長方形の部屋で皆さんと一諸に食事をしたのを覚えています。本家の事はこれくらいにして、一度mugurumaさんとお会いして話題を詰めたいですね。横浜の義兄の方の子供(甥)達は結婚してしまつているので茨城にいる義弟の子供(甥)が結婚をすれば関東でお会い出来る機会も生まれるとゆうものですが、、、さて、「むぐるま」「ろくしゃ」の本題に入ります。戦国時代に戻りますが、讃岐の国はご存じの様に讃岐三白といいまして・塩・綿・米を大阪城の秀吉に献上していました。他の三県・阿波・土佐・伊予の国に較べれば農産物の生産も悪く、その様な土地柄のため、長男・次男と言わずに故郷を後にしたのでしょうね。「ろくしや」は元々・讃岐の「むぐるま」と私は思うのですが、、、北九州では「むぐるま」ばかりでした。では又
K,Mさん、こんばんは!
お褒め頂き、恐縮です。
実は本業でも似たようことをしているので、
その延長線上みたいなイメージでやっています。
こちらも趣味に近いかもしれません。
本家の話も詳細に教えて頂き、ありがごうございます。
私も是非お話をお聞かせ頂ければうれしい限りです。
もし、こちらにお越しになられる際は教えてください!
「むぐるま」と「ろくしゃ」の件、その説が一番説得力がありますよね。
長野で旅館をやられている「ろくしゃ」さんのHPにも、元々「むぐるま」で
故郷を離れた際に呼び方を変えたと記載がありましたし、
見知らぬ土地では「むぐるま」と周りの人にもスグ呼んでもらえませんもんね。
私も過去に自分の名前を伝えようとして、伝わらないもどかしさを感じました。
その時は、「ムグルワ」「ムズルマ」と何度も聞き返され、
日本人的な名前じゃなくなってると苦笑してしまいました。。。
個人的には、畿内を去る際に四国に渡ったのが「むぐるま」で、
畿内に残ったのが「ろくしゃ」というような
歴史的にドラマチックな展開だったら、面白いと空想しています。
mugurumaさん今日は
1月5日のmugurumaさんの文章を読み直したら、安富の殿様で私は盛安と記していたんですね、系図を見直したら盛保でした。私の記述ミスでした、すみません。処で北海道はほんとにアイヌの地名が多いですね、今迄に北海道は夏季しか知りませんが、道南・道東と旅行しました、最近では5・6年前に知床ではクナシリ(国後島)を返せとシュ-プレコ-ル(この日は快晴で良く見えた)しました。網走から帯広方面に行く道は囚人を多く使つて開拓した様子がありました。旅はこれくらいにして、では又
K,Mさん、こんばんは!
全然お気になさることはありませんよ。
私もよく打ち間違いをしてしまいます。
北海道はおっしゃるとおり、
囚人で道路を切り開いたところが沢山あります。
鉄道も確か捕虜に切り開かせてというような話も聞きました。
開拓期から昭和初期にかけては、とても人間毎とは思えないような
出来事も多いようです。