「六車」はどこから来たのか。自分の苗字を探す記録。

事実

水主楠谷の六車氏

2013/09/22

水主楠谷に建つ家に城の石垣があったとのことで、大内町史にヒントがないか調べてみると恐らくあのあたりまでは虎丸城の縄張りのうちだったのではないでしょうか。

というのも地名に「下屋敷」「城の内」といったそれらしきものが今も残ると書いてありました。そうであれば石垣が組んであってもおかしくはないのかなと。

2013/08/24 記述

お母様が六車宗旦の直系と言われる方から情報を頂きました。その実家の墓地には、京都の有名なお寺にあるような畳1畳位の平たい大きな石でつくられた蓮の形の台座の上に宗旦の墓碑があり、その周りには親族の墓が数十基並んでいたそうです。※現在はどうも無くなってしまった模様。

また、家系図や位牌も伝わっており、お母様が嫁入りする時には、親戚の方々色々解説してくれたようです。70年近く前に、婚礼道具を積んだ船が嫁ぎ先に着いた時には、宝船が着いたと近所でも評判になったそうで、六車という苗字が只者ではない気がしてきました。

家紋は「丸に梅鉢」で、白鳥町の北原近辺で見た墓地の家紋も「丸に梅鉢」だったので、水主から白鳥町にかけて「丸に梅鉢」家紋の六車氏が繁栄したのかもしれません。

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