仮説
南下する毎に家紋が変わったのか?
2013/05/08
サンプル数は多くありませんが、色々な墓地の家紋を調査し、興味深かったことがあります。六車の本拠地と思われる富田中では「六本源氏骨車」がほとんどでしたが、大内や白鳥では「六本源氏骨車」を一つも発見できませんでした。調査が足りない可能性もありますが、六車氏の広がりに関係があるのかもと想像しています。
各資料でも六車宗湛の子孫が富田中と津田に数軒あると書いてありました。江戸初期にそこから南下していき、分家する度に家紋を変えたのか、安富氏が虎丸城に移った時にお供した別の六車氏がいたのかはわかりません。記録として、入野郷にいた六車宗左衛門が宗湛を祀っています。入野郷は丹生近辺で、生駒甚助が大阪城に籠城した時に大内町大谷に住む六車彦兵衛もお供したと記述がありました。彦の文字がはいっていることから宗湛の孫の系統と関係あるのかなと思いました。
加藤清正に従い肥後に入国した熊本六車の祖である六車新右衛門家昌と六車孫右衛門半三の兄弟は、六車宗湛の子孫なのかははっきりしてないようです。宗湛の息子達は帰農し、長町氏からの養子である長門守朝政は安富盛定とともに参陣し九州で亡くなったようなので、直系の息子以外はそれぞれ意思を持って動いていたように思います。そう考えると、宗湛の子供というよりは宗湛の兄弟の子供だったり親戚だったりのような気も。その当時から六車氏も数軒あっても不思議はない気がします。実際の所は不明ですが。
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