「六車」はどこから来たのか。自分の苗字を探す記録。

事実

雨滝城

2013/05/03

六車宗湛が籠城した雨滝城跡を見に行きました。展望台の所で従業員の方に聞かなかったら、不安で辿りつけなかったですね。なんせ、車が2台すれ違うことも難しい道を登っていかなければいけません。すぐ横は崖で、怖いったらありゃしない。1年ぶりの車の運転だったので尚更でした。

ずっと半信半疑でしたが、言っていた通りに休憩所があり、その脇に車を停めました。そして、雨滝城跡という看板に沿って登ります。頂上まで300mと書かれていますが、展望台の従業員の方は15分~20分かかると言っていたので、おかしいなと思うも、スグに理由が分かりました。かなり急な道なんです。頂上まで行くと息がかなりあがりました。。

急勾配

結構な急坂。

石垣の名残?

途中石垣の名残と思われる石が散乱している場所も。

頂上部分が見えてきた

頂上部分が見えるトンネルの出現。期待感を高めます。

頂上の平坦部

平坦部はあまり何もありません。。祠と登山ノート、雨滝城跡の概要の看板があります。

祠
津田方面を望む

蜂が多くて、眺めを堪能できませんでした。。遠くから海の方を撮影しています。

所在地:大川町富田中216番地の1

雨滝山は大川・寒川・津田三町にまたがり、海抜253m。この頂上に1458年頃(長禄年間)に安富山城守盛長が城を構え、以来筑後守盛正、筑前守盛方、肥前守盛定と相つぎ、1583年(天正11年)長宗我部元親勢の侵攻にあって降伏落城した。

本遺構は、瀬戸の海を扼する要衝にあり、天然の要害地形を巧みに取り入れて普請された典型的連郭式山城である。山頂本丸跡を中心に、東方2段、西方5段、北方5段、三方尾根上に削平地が形成されている。昭和57年本丸を含め7郭、昭和45年に西第5郭部、計8郭の発掘調査が行われた。南第2郭を除き、すべての郭に礎石が検出され、建物の遺構の存在が裏付けされている。

各部をつなぐ犬走り・堀り切り・土塁等の遺構も明らかとなった。出土した遺物としては、土師質土器・備前焼龜・中国製陶磁器・古瓦(いずれも破片)・坩堝・鉄滓瓷・小柄・短刀・透かし彫り鍍金金具・輸入銭(唐・北宋銭)・貝・王石・焼けた壁土等で、注目すべき山城解明に貴重な資料を得ている。

安富氏は応仁の乱に武将として出陣し、乱後は西讃の細川氏とともに細川氏の目代として讃岐をニ分して東讃を管轄した。平素の居館は雨滝山麓の城山、その他石田、津田側などにあったと推定される。

出典:さぬき市教育委員会

コメント