「六車」はどこから来たのか。自分の苗字を探す記録。

事実

六車城

2013/04/30

現地に行って麓の方にお話を伺うと、勘違いしてることが発覚しました。それは、鳥居がある天神宮を城跡だと思っていたのですが、そうではないとのこと。神社の反対側にある竹やぶが城跡と教えてもらいました。昔は、そこに長屋と寺があったそうです。そう考えると城と言うよりも居館だったのかもしれません。また、現在はその竹やぶの中にも六車宗湛のお墓があると言うではありませんか。先日も考古学の発掘調査をやったそうで、竹やぶを掻き分けたら入れるので行ってみると良いと言われたので行ってみると、結構狭い。当時は竹やぶが無かったにしても、それほど大きな建物は建てられそうにありません。20人も入ればいい方かなと。

雨滝山と六車城

六車城と雨滝山

六車城跡

六車城跡はこっちでした。。

宗湛のお墓

歴史を感じさせる墓石。右側はなんでしょう?

宗湛のお墓

風化しているので分かりませんが、文字が書いてあってもおかしくない雰囲気です。

宗湛のお墓-裏側-

2012/03/20 追記

六車城跡

雨滝山(253.2メートル)の南麓、前面に津田川支流土井川を控えた城山と呼ばれる小丘陵上にあった。寛永7年(1630年)の富田中村検知帳(有馬文書)に「城の下」「城中道」「南海端」などの地名が見え、南方山下の地を城の前とよぶ。丘上に2段の削り平地があり、南・北・西の3方は断崖となり、自然の要害をなす。西方高地北寄りに五輪塔・層塔・宝●印塔の部分などが集められており、室町時代の墓か供養塔を思わせる。周囲に掘りがめぐらせれていたようで、南側の帯状湿地を堀田という。東方空堀で天神山に接する。天神山を含めた全域が城跡と思われる。富田城とも言われ、永正8年(1511年)と見られる6月23日付の宗不書状「実隆公記」に、細川六郎澄元がひそかに阿波を脱出し、「さぬき東方富田城」に入ったという注記があったことを記す。本来雨滝山城主安富氏の居館だったが、元亀年間(1570~1573年)同氏が虎丸城に移ったのち、家臣六車宗湛(宗旦)が引き継いだと思われる。宗湛はさらに雨滝城に入ったが、長宗我部元親の攻撃に屈した。その後帰農したらしく、慶長7年(1602年)の富田中村検地帳(有馬文書)に宗旦分22石余の名請地がみえる。

出典:香川県の地名

2012/01/25 記述

入り口鳥居
鳥居から
支那事変の碑

安富家の家老として、六車宗旦という方がいたそうです。雨滝城の支城となっていましたが、長宗我部元親の四国平定の前に籠城虚しく敗れさってしまいました。六車城がどうなったかは定かではありませんが、雨滝城に籠城した時には白米伝説というものもあるようです。但し、敗れたから殺されたかというとそうでもないようで、帰農したと書いてありました。

白米伝説

長宗我部元親に雨滝城を攻められ、籠城した城代家老の六車宗旦。城の水道を抑えられたが、あたかもそんなことはおくびにも出さないように、芝居を打ったのです。その芝居とは、遠目からだと馬に水をかけているように見えるよう米をかけたそう。しかし、鳥がその米を啄みに集まったことからバレたそうな。

参考:戦国武将の家紋

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