事実
原田城
2012/08/15
原田兄弟が国人として働きその拠点となった場所でしょうか。六車も原田兄弟に駆逐されたのかもしれません。なお、石垣の上には建物が建っており、地元の方は入ることが可能なようです。
原田城
原田城の造られた年代は明らかではありませんが、室町時代末期に書かれた「足利季世記」によれば、1541年(天文10年)11月に管領細川勝元の家臣木沢長政が原田城を攻めたとの記述がみられ、少なくとも16世紀初め頃には築かれていたものと考えられています。
原田城には、主城の北城と砦の南城の2城があり、この場所は北城が築かれていたところで、当時は東西90間(約160m)、南北180間(約320m)の規模を有し、現在は残っていませんが堀もあったと言われています。また、南城はここから南東約300mのところにあったと言われています。
当時は群雄割拠の戦国の世で各地で合戦が行われ、この原田城も多く史実のなかにその名がみられます。1547年(天文16年)には城主は不明(摂津誌によれば三好日向守)ですが、細川晴元勢3万騎の攻撃により陥落しています。また、1578(天正6年)には織田信長による伊丹有岡城にたてこもる荒木村重討伐のさい、この原田城は信長軍の付城として信長配下の武士が在番していました。
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