事実
「六車」比較年表
2012/05/12
摂津国 | 讃岐国 | 肥後国 | ||||
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鎌 倉 時 代 |
1097年 | 中右記に「摂津国六車庄住人事」という記述 | ||||
1265年 | 六車郷の下司を追放 | |||||
1273年 | 住人資持が神木を汚穢 | |||||
1279年 | 能勢一帯に君臨した多田院御家人として、「多田神社文書」に原田氏が登場 | |||||
1305年 | 安富頼泰、「大野別府」の岩崎村の地頭 | |||||
室 町 時 代 |
1344年 | 原田氏は大炊寮の所領である六車御稲の年貢を横取り | ||||
1375年 | 六車郷が正真院家に寄進される | |||||
1429年 | 安富隼人測量讃州守護職任命 | |||||
1444年 | 垂水西牧北郷の牧務職を中東家・正真院家が世襲。これ以降原田郷と呼ばれ始める | |||||
1487年 | 四国管領細川家に属し京都合戦戦功のあった六車左衛門尉信勝が亡くなる | |||||
1521年 | 六車長左衛門尉景●が亡くなる | |||||
1541年 | 六車長左衛門尉信景が亡くなる | |||||
1557年 | 六車太郎景成が亡くなる | |||||
1573年 | 六車左衛門時氏、秀吉公に供し備中高松城攻。太刀一腰賜。 | |||||
安 土 桃 山 時 代 |
1562年 | 六車宗堪が教興寺の戦いに参戦 | ||||
1570年 ~ 1573年 |
六車宗堪が富田城を引き継ぐ。六車城に(?) | |||||
1572年 | 六車宗堪が雨滝城に移動 | |||||
1576年 | 六車宗堪が西教寺に銅鉢を寄進 | |||||
1583年 | 六車宗堪が長宗我部家に攻められ降伏 | |||||
1585年 | 長宗我部家が豊臣家に降伏 加藤清正が讃岐丸亀に領国 |
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1586年 | 六車宗湛が鞍を作る | 1586年 | 加藤清正が肥後領主に | |||
1593年 | 六車宗堪が亡くなる | |||||
江 戸 時 代 |
1600年 | 加藤清正が宇土城攻略 | ||||
1610年 | 加藤清正が亡くなる | |||||
1614年 | 生駒甚助に従い、六車彦兵衛が大阪冬の陣に豊臣方として参陣 | |||||
1639年 | 生駒家家臣に六車弥兵衛の記録 | |||||
1695年 | 六車宗湛の子孫が富田神社の祠官になる | |||||
1788年 | 六車文太が地侍に | |||||
1806年 | 六車金吾が富田中宮内にて牢人医師として開業 | |||||
1818年 | 六車実五郎が天の森で医業を開始 | 1818年 | 六車昌章が頼山陽と舟遊び | |||
1833年 | 六車謙篤(杏隠)が死去 | |||||
1834年 | 六車和八郎が継ぐ | |||||
1868年 | 六車和七郎が継ぐ |
※赤字は、2012年5月12日追記。
自分が調べた範囲内ですが、「六車」が出てくる時代と摂津国、讃岐国、肥後国に分けて、年表に落としました。やっぱり、関連性が判るようで、判りません。室町時代の讃岐国の六車氏の記録があれば、少し見えてくるものがあるような気がします。
謎
・室町時代の讃岐国で六車氏は存在していたのか?
追記:安富氏と同族であれば解決ですね。
ひょっとしたら、熊本の六車氏は下総から安富氏と伴に下ったのかもとしれません。
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