事実
福山のk,Mさん
2013/05/02
四国に行く前に「六車」についての情報を教えて頂いたK,Mさんにお会いしに福山へ向かいました。広島には行ったことがなかったので、いい機会に恵まれたと思います。改札で待ち合わせをしていると初老の男性を発見し、話しかけるとK,Mさんでした。さっそく、近くのホテルへ。ご挨拶と直接話すことでしかわからないことを伺いました。
K,Mさんは、九州で生まれ育ち、九州で働いていました。実は70代後半と聞き、ビックリ。潜水を行う仕事で片耳が難聴になるなど大変な思いをしたようです。その後、とある事情からこちらに引越されたとのこと。お墓も富田中からこちらに改葬。昔は、富田中までお墓参りに行っていましたが、お墓も改葬したのであまり行く機会はないそうです。そのお墓の場所の近くに他の六車家のお墓もあるかもしれないという有力情報も得ました。その他、ご家族の話や昔の職場に「六車さん」がいた話、私の故郷北海道についても話させて頂きました。
その後、お食事をご馳走して頂き、また駅からすぐの福山城にも案内して頂きました。最後におみやげも頂くなど本当に何から何まで申し訳ありませんでした。ありがとうございました!
家紋である六本骨源氏車を見せて頂く。
福山城の石垣。
三葉の松と弘法大師について伺う。
福山城天守閣。
福山城の最上階から市内を一望できます。
mugurumaさん、お早うございます。
さすがプロですね。アクションが早い。冒頭の写真、家紋である「六本源氏車」を見せて頂くの、、、-字、欠如、が有ります。正式には「六本骨源氏車」です。
最後の写真 台湾の人達でしたね、先般にも記述した、京都の稲荷神社・東寺にも
中国語が多く聴かれました。アベノミクス円安で日本国中、聴かれるようになりますね。大阪から息子夫婦と孫達が帰省してきました。2・3日、忙しいでしょう。
最後になりましたが、本当に有難うお世話になりました。では又
K,Mさん、こんにちは!
ご指摘ありがとうございます!
ご家族揃って、忙しくなるとは思いますが、
楽しい時間が過ごせますね。
mugurumaさん、今日は!
本日は井原市へ「讃岐うどん」を家族揃つて昼食時いつてきました。うまかつたです。讃岐うどんは全国何処でも有りますが、本場、讃岐の引田方面だつたか?
(うどん工房「六車」があつたと思います。帰宅してからは、コ-ヒ-タイムにmugurumaさんからいただいた、”おみやげ”「東京ばな奈」 をいただきました。うまかつたです。
では又
K,Mさん、今晩は!
楽しい家族の時間を過ごせてますね!
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白鳥にある麺工房六車も
一度は行ってみたいと思っているのですが、
残念ながらまだ味わったことがありません。
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先日、高松で食べた手打ちうどん山鹿もこだわりが感じられ、
うどんはファストフードじゃないんだと衝撃を受けました。
うどん県も奥が深そうです。
mugurumaさん。今日は!
株式会社麺工房六車は、東香川市湊6番地1になつていますが、白鳥町なんですね
商品は¥3000円以上講入で発送料は無料とか!営業は11時30分~14時までと短くベスト3とか!日祝日休業になつていますね。
昨晩は福山に三軒ある”しまなみ”とゆう回転ずしにいつたのですが3月にいつた時に較べ、ネタは薄くなり長さも短く、年金生活者はもういけません。
最後に成りましたが、写真の五葉の松は「三葉の松」です。 では又
K,Mさん、今晩は!
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そうなんです。麺工房六車は営業時間が短いのと日曜祝日が休みで、
タイミングが合わず行けていないのです。
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回転寿司もひょっとしたら輸入物が値段を釣り上げているのかもしれませんね。
三葉の松の件、追記しましたので、ご確認ください。
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それでは楽しいひとときを!
mugurumaさん、今日は!
三葉の松について現物はまだ見て無いのでしようか?写真の五葉の松と弘法大師について伺う。と有りますが、五を三に、それから、写真は三葉松。と有りますが、あの松は違う松です。写真は三葉松。となつているのを消去して下さい。
では又
K,Mさん、失礼しました!
修正しましたので、ご確認ください。
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また、三松の実物、ありががとうございます!
先ほど、拝見しました。
私にも幸せが訪れると嬉しい限りです!
母87歳が水主楠谷の六車家の娘です。現在福山に住んでいます。宗旦の子孫六車幸七が母の父で(私の祖父)母は幸七の九女です。幸七は3歳まで乳母に育てられたと聞いています。その頃までは栄えていたのでしょう。最近になり私も六車のルーツに興味を持ち調べていたらこのページに出会いました。
「私の母が六車宗旦の直系です」さん、ご連絡頂きありがとうございます!
水主楠谷というキーワードが調査する中で出てきたのですが、宗湛直系だったのですね。
ということは、誉田川の墓も六車幸七さんの先祖が建てたのでしょうか。
もし、差し支えなければ教えて頂きたいことがあります。
水主楠谷の六車家の家紋とお墓の場所です。
直系の方が旧大内町に南下していたという情報が初めて頂けたので、
今後の推測に大変役立ちそうです。
また、皆さんの情報を聞くと香川の六車氏はちょっと前までは裕福だった印象ですね。
やはり、香川じゃそこそこの家柄という認識なのでしょうか。
「与田川たもとの六車宗旦のお墓」は石碑ではないでしょうか?本物のお墓ではないと思うのですが。誉水の水主楠谷の六車家は現在は幸七の長男マサカズ(私の母の兄)の息子(ヒロシ)の子供が跡取りでいるそうです。私(57歳)が20年前に参ったお墓は畳1畳位の平たい大きな石で台が蓮の形で京都の有名なお寺にある様な同じ形のものでした。「さすが殿様のお墓」という感じでした。場所は実家のたもとですが、平地ではなく小高い場所で頂上に宗旦の墓と10墓以上ほどの親族のものがありましたが、今年の連休に私の姉と母が墓参りに20年振りに行くとヒロシは3年前(私の母より10歳下)、ヒロシの妻は1年前に亡くなり、墓は全てまとめられ私が見たあの大きな宗旦の墓はなくなっていたそうです。高速も通り様変わりした風景に母も墓地の場所が解らず「水主楠谷の六車幸七の墓は?」と聞けば現地では今でも誰もが知るほどの有名な家系ですぐに教えてもらえたそうです。母が嫁入りに来た時の婚礼道具を積んだ船が着いた時「宝船が来た!」と言われた位の婚礼道具だったようなので67年前までは六車家は裕福だったのでしょう。花嫁衣裳の写真も有りますが当時にしては庶民ではあの衣装は着れないようなものでした。(嫁に来て苦労したみたいですが(〃´・ω・`)ゞ 家紋は「丸に梅鉢」です。「分家では違う家紋が色々あるのかもしれないけど梅鉢以外聞いたことがない。」と母は言います。婚礼道具に「丸に梅鉢」の家紋が入れてあるから間違いないそうです。最近ひょんな事から六車の遠縁の娘さんと結婚したと言う男性(20代)に会えその話をすると母がとても興味を持ちました。母は末っ子で六車の兄姉は皆亡くなり六車を知る人がいる事を大変喜んでおります。
「私の母が六車宗旦の直系です」さん、またのご連絡頂きありがとうございます!
そうです!石碑です。入野郷にいた六車宗左衛門が宗湛を祀ったとあります。
その後、生駒甚助が大阪城に籠城した時に大内町大谷に住む六車彦兵衛もお供したという話も聞きました。
ひょっとしたら、お母様の家系はこちらなのかもと想像した次第です。
そして、宗旦のお墓が無くなってしまっているのは残念です。
確か、大川町史にも水主に宗旦の墓があると書いてあったので、
いつかは探しに行きたいと思っていました。
※さらに宗旦の位牌もあったそうです!
「丸に梅鉢」の家紋の件、大変助かります。
先日調査に行った時、白鳥町と大内町の間くらいの墓地に、
「丸に梅鉢」の六車さんのお墓をたくさんみつけたので、
なんだろうと思っていました。恐らく、分家された方々のお墓ですね。
やはり、富田中から南下する時に、六本源氏骨車から変更がなされたものと推測されます。
また、嫁入りの婚礼道具の話、驚きですね。
宝船が来たという表現がその驚きを想像させます。
大変、勉強になりました!四国に行って是非調査してみたいです。
参考になり良かったです。宗旦の位牌と家系図は実家にありますよ。母の結納時に幸七が私の父方の親族に家系図と宗旦の位牌を見せて六車の家系の説明をしたそうです。白鳥町は母の姉の家が有ります。白鳥神社の近くです。とにかく高松方面から実家周辺のあちらこちらに六車姓は沢山あるそうです。戸籍謄本の母の出生地は香川県大川郡誉水村と書かれていますから、今の大川町でしょうね。四国に行かれたら是非、水主楠谷の六車家に行き色んな話しを聞いて来て下さい。今年5月の連休に母が墓参りに行くものの「甥のヒロシが生きていれば実家に行きたい思ったけど、もう誰も知らないから・・・」と遠慮し近くまで行き帰ったそうです。福山に嫁ぎ縁遠くなってしまったのでしょう。是非行かれたらお話し聞かせてください。楽しみにしています。有難う御座いました。
「私の母が六車宗旦の直系です」さん、ご連絡頂きありがとうございます!
家系図の話で、もう一つだけお伺いしたいことがあります。
もし、お母様が覚えていらっしゃったらで、構いません。
宗湛の子供の誰が水主楠谷のご先祖さまなのでしょうか?
有馬家文書には、「又兵衛」「せい吉」「又左衛門」「又市」と
4名記録に残っています。
「又左衛門」は富田中神社の家系と書いてありましたので、
ひょっとしたら他の3名のうちの1名なのかなと思いました。
何度もお手数をお掛けしますが、どうぞ、よろしくお願いいたします。
母が子供時代長女のシズコ姉さんが「宗旦は立派なご先祖様・・・」と色々話しは聞かされていたそうですが、全然興味がなく右から左だったそうです。今回このページにたどり着き内容を話したら「へえ~シズコ姉さんが言うてた事は本当だったんだ・・」という感じです。実家に行けば家計図が見れるでしょうね。母が生きている内に一度尋ねられるといいのですが。残念ですが今現在では誰が先祖様かわかりません。
「私の母が六車宗旦の直系です」さん、ご連絡頂きありがとうございます!
そして、お母様にお聞き頂き、感謝いたします。お母様にも御礼申し上げます。
私も自分の苗字が変わっているけど、情報の少なさからなかなか探し当てることができませんでした。
インターネットで調べて、自分と同じ名前の城があることに気づき、調べる動機になりました。
幸いなことに神奈川県にいるので、国会図書館や都立中央図書館に行けば、全国各地の市町村史を見ることができ、
時間さえ許せば、調査することができます。しかも、調べるにつれ、歴史の教科書で習った人物も垣間見えるので、
自慢の苗字なんだと自信がつきました。これも皆様から頂いた情報をもとに推測できたからです。
本当にありがたい限りです。時間がある時に、さらに深く六車の謎を探れればと思います。
本当に自慢の苗字だったんですね。母は「六車」と言う名前は変な名前だと思い嫌いだったけど・・・と笑いながらはなしてくれました。神奈川に住まれているんですね?おいくつですか?お会いできればいいですね。先程母と話をしての内容なのですが、「又左衛門」さんは宗旦の長男ですか?というのが長男なら城跡の屋敷(実家)の跡取りをしているはずでは?実家は今でも城跡の石垣の上に建てられています。(現在は、母の住んでいた家は当然取り壊され母の甥の息子が新築していますが)「雨滝城」「六車城」「虎丸城」の「六車城」の跡地が実家のはずです。母が子供の頃には「雨滝山」と「虎丸山」とただの山になっていたそうですが「六車城」の跡地のみ子孫が住み着いていたのでは?、母の母マサ(わたしの祖母)が嫁に来た時は家も無い状態だったそうですが、土地(領地)は相当で高松駅から誉水全てと山が宗旦の領地だったそうなので40年前遺産相続の際兄弟が多くて色々大変だった様子で甥のヒロシが福山の母の所迄尋ねてきて相続の印鑑を押したそうです。「今でも屋敷の土地は岡山の後楽園以上は所有しているはずだけど・・・」と母は言います。お墓の件ですが、頂上にあった宗旦の畳1畳程の蓮の台の墓と入り口に10墓ほどの編み笠をかぶったようなお墓は「先祖墓」にまとめられ、墓の箱の中の木札に名前が書かれていたそうなので、墓石に刻まれていたものと同じ内容が木札に書かれているはずです。そこに「宗旦」の名前の木札があるはずですが・・・。もう一つ先祖墓があるのが母の両親(幸七とマサ)・母の兄(マサカズ)・母の甥(ヒロシ夫婦)を先祖墓にして祀られ現在は2墓だったそうなので、お墓に行き木札を見られれば宗旦の子供の名前がわかるかもしれません。参考までに連絡させていただきました。
「私の母が六車宗旦の直系です」さん、今晩は!
私も六車にはツライ思い出が数々あります。知らない人は漢字で想像できる文字がないので、
自己解釈が発生し、なかなか一発では苗字を伝えることができません。
よくカタカナで「ムズルマ」「ヌグルマ」など外人っぽい名前に変換されます。もう慣れっこですが。。
はい、現在神奈川県に住んでおり、未婚の39歳です。お会いできると色々情報交換できますね。
ご連絡の件、文献では「又左衛門」は長男で、富田神社や六車城近辺に子孫の方が多いようです。
ただ、長町氏から養子を迎えているところも気になっていまして、長門守朝政と名乗っていたようで、
宗旦の出家前の名前である朝満の字を引き継いでいる気もするのです。
ただ、朝政は戸次川の戦いで亡くなり、その子供が有馬家文書に出てくる「又兵衛」なのかどうかは、謎です。
土地の広さの話、ハンパ無いですね。お墓の木札も是非見てみたいです。
四国に行く機会があればと思いますね。
調べると「六車城」の住所は富田中ですね?という事は母の実家の城跡のような小高い山の上にある石垣は城跡ではないのでしょうか?「雨滝城」が大川町なのでそちらなのでしょうか?ネットで調べれば調べる程こんがらかります(≧∀≦)★☆水主楠谷の六車家の実家の「城跡のような石垣の敷地は宗旦の時代は何があったのでしょうか?こちらからの質問ですみません。
私も富田中の六車城に行ってみたのですが、20人も詰めれば窮屈なくらいの敷地でした。
城というよりも住まいといった感じのようでしたよ。
推測で申し上げるのですが、宗旦の存命中は水主楠谷には六車氏は到達しておらず、
宗旦が帰農した際に、その子孫が水主楠谷に移り住んだとではないでしょうか。
もしくは、虎丸城籠城の際に宗旦の親族である六車氏が詰めていて、
城を明け渡した際に、すぐ近くの水主楠谷に根を張ったのかもと想像してしまいました。
熊本の六車氏も加藤清正に仕官していたので、
当時宗旦の親族にあたる六車氏もいくつかあったのはないかと推測しています。
正解かどうかは全く根拠はありません。