事実
六車村
2013/01/17
南牧村教育委員会の方に六車地区の歴史を知る資料を問い合わたところ、以下のような資料を送って頂きました。どうも、ありがとうございます!頂いた資料からは、残念ながら「六車姓」と「六車村」は全然関係なさそうです。残念。以下、文字に起こしました。
8六車
全国的に珍しい村名である。古い地芝居の幕に「六炉間」とある。小金沢マケが底瀬から分家して南牧川の本流添いに村を開いてしばらくの間、六戸の家屋が点々と建っていたことから当てられた地名だという。
伝説の項で述べた一説は武田信玄が上州攻めを始めた時、六車を通過しようとして、荷つけ石に荷車を突き当てて、車を六つに割ってしまったことより起こる地名である。
寺も社も底瀬から村移りと共に六車に移されてきたが、現在では六車を本村(もとむら)と呼び、底瀬、山仲を枝郷と呼ぶ。氏神の分祀する伝説は、同族の中におこる耕地の限界などから発生する争いを伝えたものと言われる。
六車騒動という言葉がある。現在は見られなくなったけれども、同族の中での争いや、村の中での争いが昔からたびたびあった。
農耕地が狭かったから、二男三男は少ない耕地の他に、木材の切り出しなどによる木出しによって、生計をたてる場合が多かった。木材搬出に用いる「地ごろ」車を、南牧で初めて取り入れたのは六車の地ごろ引きであった。
土木請負い事業がおこるのも六車が最初である。高利貸しの台頭で農地を失った階級や、耕地を持たない二、三男達を集めた。木材搬出、土木請負の発達によって、自給体制の農村から生活手段を外に求める村へと進展した。これは砥沢とか熊倉にも例を見ることができる。このような村落は早くから自給農業が崩れて都市的要素が侵入したため、収入手段や職業転換の選択になれている。そのために過疎化現象に対して巧みに対応をとげていく。六車騒動という言葉もこのような村の変化があった故に生まれた言葉であったであろう。
枝郷とする底瀬、山仲の村も農耕地は狭く、険しい傾斜地の村である。底瀬に「はんめえば」と呼ぶ家がある。家のそばから奥の部落をつなぐ長い坂があった。底瀬の村人の生活大きな坂はさまざまな影響をもっていた。坂の前の場という意味である。村の道の全てが坂である。坂の所々には休み場という場所があって、低い石垣の端に誰でも荷物をおろして休めるようになっていた。休み場は何人もが休めるようにかなりの部分をしめていた。ここで村の出来事や、農耕の話しや、家庭のことが話し合われた。村人にとっては情報交換の場所であった。
山奥からは長い期間にわたって木炭が運び出された。かつては小学校に通う児童さえ一俵の炭を背負ってきた。この村で炭焼きの業にたずさわった人たちは多かった。底瀬の炭は火が強くて、長持ちすると言われた。その生い立ちからして現在も体力の強い人が多い村であると言われる。
山仲は底瀬とは谷を別にする集落である。村をとざしている岩石の一つに磔岩と呼ぶ岩がある。村を外敵から防ぐため頂上に積んだ磔が残っている。山仲の村に畠山の苗字を冠する一族がいる。源平合戦の勇者、畠山重忠を祖とすると伝えられ、墓地に七枚の板碑を祀っている。底瀬の応永18年(1411年)銘の古碑については信仰の項で記す。
出典:社会生活より
3六車の荷つけ石
信玄が箕輪城目指して進んだ時、六車に入ると、兵糧を積んだ荷車が道端の岩に突き当たって川に転落し、六つに割れてしまった。これよりこの村を六車と呼んだ。その岩はいまも荷つけ石と呼ばれ、古い道の傍らにある。
出典:口頭伝承より
mugurumaさん、お早うございます。南北村教育委員会に問い合わせて、良く調べられたんですね。此の文章で、今迄の疑問が晴れましたね、大変有難う御座いました。出典:社会生活より・口頭伝承より とありmugurumaさんの几帳面さが良く伺えます。 私などはいい加減なので例えば、今読んでいる本では 加藤拓川(成澤栄壽)・卑怯を映す鏡(藤原正彦)2冊は図書館より借り 長曽我部(講入)の本をふらふら読んでいます。明日は県会議員の新年互礼会、20日は将棋大会(私はヘボ)です。最後に成りましたが、南北村の六車、重ねがさね有難う御座いました。でわ又
K,Mさん、こんばんは!
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戦国期までだと、六車姓とは関係ないようです。
やはり、畿内の車持部から出たのが六車姓なのかなという思いもあります。
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残念である一方、南牧村資料は武田信玄の記述が多いんです。
いきなり武田信玄から歴史が始まる訳ではないので、
ひょっとしたら木曾義仲以前に六車姓が存在したのではと期待しています。
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それにしても、K,Mさんは、読書家ですね。
私は、本を読めていないので、うらやましい限りです。
それでも帰省した時に、六車由美さんの『驚きの介護民俗学』を読みました。
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仕事がらインタビューに参加することがあり、生き様って面白いなと思っていたので、
楽しく読み進められました。偉人の生涯だけでなく、一般の人の話も興味深いです。
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mugurumaさん、お早うございます。いいえ・いいえ読書家なんて、とんでもないです。仮に100人いて活字(読書)によく目を何時間も通す人を5%とします。中間に90%の人が、ほどほどにする人、後の5%がほとんどしない人、私は最後の部類に入ります。さて由美さんの民俗学読まれたんですね。つぎに本題。武田信玄の件よくわかります。木曽義仲が出てきましたね、新たな挑戦です。木曽義仲に関しては後白河法皇依り平家追討の命を受けたりとか、山・川・谷ありの木曽です。確か民謡で、・・・木曽のお・お・お御嶽山は、木曽の御嶽山は、・・・と、あつたと思います。山は海抜3063m、木曽川は全長229km長野県・岐阜県・愛知県・三重県を経て伊勢湾に注ぐ木曽川水系の本流で(源流「きそむら」があり)木曽三川の一つ。国道23号線で木曽岬町がある。木曽義仲から紆余曲折しながらでも六車に到達出来れば、一つの方法として新たな勉強です。尚 井原市の六車家・家紋の件 暖くなつてから行く予定です。でわ又。宜しく。
K,Mさん、今晩は!
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それでも、本を並行して3冊も読めるなんて、なかなかできませんよ!
そして、木曾義仲の件、六車氏が群馬にいたすれば、ちょっと新しすぎるかもしれません。
私の想像では古代~平安くらいなんです。
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なんでも、車持氏の娘、車持与志古娘が藤原鎌足の妻らしく、
群馬から鮎が送られてきた木簡が見つかったそうです。
息子は藤原不比等とのこと。
京と群馬がこの頃からつながっているのが怪しいとにらんでいます。
mugurumaさん、今日は。いいえ本当なんです。たまたま 重なつただけです。昔・昭和50年頃買った、クスト-の「海の百科」20巻を3冊読んで後は未続です。ご存じ、クスト-はフランスの海軍大佐でアクワラング(フランス語・肺呼吸)潜水の権威です。横道にそれましたが、木曽義仲の件、小休止して家老・六車宗旦に関係する長宗我部家の子孫・友親氏の著書より、「出典」元親が家臣の中島可之介(なかじま・べくのすけ)を使者に立てて、信長に元親の嫡男信親の烏帽子親になることを依頼したときのこと、平尾道雄著の「長宗我部元親」(人物往来社刊)の中に面白い話が戴つている。其れによると、信長は「鳥無き島の蝙蝠」を「ムチョウトウノへンプク」と音読みでからかかつた。これに対して、可之介は信長のいつたことがわからないまま「さらばお上は、ホウラィキユウノカンテン(蓬莱宮の寛典、といゆ意味であつたのだろうか)と見上げたてまつる」と述べ、信長のほうもまた可之介のいつた意味がほとんど理解できないまま「さようか」と答えたという。なにやら未開の国から使いが来たときのような会話だ。いずれにせよその対応ぶりを見ると、信長は元親をかなり軽く見ていたようだ。信長が元親を低く見ていたことについては理由がある。当時の土佐は国の政治の中心、京の都から距離的にも遠く離れていた。それに土佐は神亀元年(724年)に配流の制度が定められて以来、配流の地としてその歴史をたどつている。つまり。華やかであつた信長らの活躍する尾張・美濃・三河などから見れば、人無き島と見えたのである。確かに、天下を望むには極めて不利なところである。だが・そこから長宗我部元親、は立ち上がり、四国を統一しさらに海を渡つて中央へと飛躍していく夢をみたのである。此処までが著書の3分1です。速続出来ないので何時終わるやら。六車宗旦の記述が今の処、出そうになく、期待するのが無理なのか知れません。土佐の雄・本山を倒し阿波・讃岐まで攻め進んでいます。では又
K,Mさん、今晩は!
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「海の百科」の件、なかなか寝かせてますね。
実は「海の百科」を買われてからと私の年齢がほぼ同じ歳なので、
自分のこれまでと重ねてしまいました。
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また、信長と中島可之介のやりとり面白いですね。
お互い相手の意図がわからないのに成り立ったのですから。
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長宗我部元親の讃岐侵攻が始まったということは、もう少しですね。
そういえば、東讃の各町史を読んでいると長宗我部氏に対しては好意的な書き方は少なかった気がします。
そして、これも面白いなと思ったのですが、大川町と津田町は安富氏や六車氏の内容が結構あったんですが、
その他のところは案外少なく、安富氏の支配地であったところでもあまりいい感じでは書かれてませんでした。
このあたりは寒川氏との関係もあるのかもしれないと思った次第です。
mugurumaさん
今日は、mugurumaさんはメデア-の最先端のお仕事をしているんですね、凄い、
長宗我部はあれから小休止です。加藤拓川のが図書館への返却が狭つているので優先にしています。処で今日、チキり権現を検索すると香川県の神社(稲荷権現)一覧があり富田神社が出てきました。その中(写真)で六車博様という方が友達(廣瀬敏則)様と一緒に写つています、どうも先生の様で、東京にお住まいのようです。何かヒントに成るものがおはりかも知れません。mugurumaさんのお得意pcで宜しく。 では又
K,Mさん、今晩は!
全然ですよ!しがないサラリーマンです。
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<a href-"http://sixwheel.net/wp/blog/2012/04/21/title-4/" rel="nofollow">廣瀬</a>さんには、以前六車氏が白鳥町より富田中に
移住して来た旨を教えてもらいました。
この事実により寒川氏が六車郷を公文したことで
六車氏が讃岐にやってきたのではと推測しています。
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六車郷以前の六車氏の活動と六車郷と讃岐の関係が
まだ明確ではないので、そこがつながると嬉しいなと思っています。
mugurumaさん。
何故か今、目がこうして覚めているので硬骨の外交官、加藤拓川(成澤栄壽、著)
文中、途中からの引用。
子規(正岡)の墓は当時、畑地の多い東京府北豊島郡滝野川村田端(現北区田端)の八幡(はちまん)坂下の「真言宗和光山大龍寺」に設けられた。
田端にはのちに田端文士村ができる。少し飛ばして、陶芸家の板谷波山・玉蘭(画家)夫妻、洋画家の山本?ら、文学の芥川龍之介、室生?太田水穂・四賀光子夫妻、滝井孝作、堀辰雄、川口松太郎らが居住して、 文士村と呼ばれるようになつた。大龍寺は立派な様です。仕事で行かれた折には、子規さんの墓石を見るのもよかかとおもいます。秋山兄弟(日露戦争)と共に縁があり、混とんとした現在を憂いながら、硬骨の外交官「加藤拓川」に想いを寄せている、今日この頃の私です。では又
出典:加藤拓水
K,Mさん、こんにちは!
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正岡子規の墓が東京にあるんですね。
<a href="http://www.eonet.ne.jp/~kumonoue/sikikatou.htm" target="_blank" rel="nofollow">加藤拓川</a>の話もをリンク先を読むとスゴイ人だったことがわかりますね。
muguruma さん、お忙しそうで何よりです。人間忙しい時が何でも出来そう、、、
mugurumaさんは今が一番 油にのつている時機ではないでしょうか。
加藤拓水そうなんです、凄い人物ということ読めば読む程引き込まれます。
いよいよ昨日から通常国会 今 置かれている日本の立場、厳しいです。政治の話はこれで終わりにして。正岡子規の墓行かれましたか、拓水の書の中に、子規さんの家族と秋山大将の家族とが一緒に写ったのが有ります。 では又
K,Mさん、今晩は!
そんな大したものでもないんです。
業界的に基本帰るのが遅いだけなんです。
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正岡子規のお墓、時間がある時にいきますね。
田端なら1時間くらいで行けると思います。
mugurumaさん、
子規さんの家族と秋山大将の家族と加藤拓水も一緒に写っているのに記述もれていました。 体に気をつけて頑張つてください。 では又
K,Mさん、今晩は!
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まるでドラマになりそうな豪華なメンバーですよね。
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ところ、実は先週、大川町史を調べていて、
六車又左衛門の家族構成らしき記述を発見しました。
閉館間際だったので、コピーできなかったのですが、
今週末にでも再度見てこようと思います。
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そしてお気遣い頂き、ありがとうございます!
頑張ります!
mugurumaさん、今晩は、大川町史を調べていて、又左衛門の記述を発見されたとの事。大変楽しみにしています。話は変わりますが、テレビで盛んに賑わしている女子柔道監督の園田隆二監督は福岡電波高校出身の園田義男・勇兄弟とは親戚関係にでもあたるかと思いましたが、そうでもなく、たまたま、同じ園田性だとのこと。私は今回の騒動については記者会見(本人)の様子から見て何か違った力が作用しているんではといらぬ思いをしています。ただの思いすごしで有ればよいのですが。又左衛門と無関係の事で長くなつてすみませんでした。では又
K,Mさん、こんにちは!
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園田姓は九州に多いみたいですね。
ただ柔道をやられているので、目標にしていたのでしょう。
私も詳しいことはわかりません。。。
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昨日、<a href="http://sixwheel.net/wp/blog/2013/02/02/title-80/" rel="nofollow">宗門改帳</a>という資料からK,mさんの記述と似たものがありました。
恐らく富田神社4代の六車又左衛門のようで、
K,Mさんの家系図の始まりも宗湛の息子達は記載されてないようです。
でも、こういのが400年近く伝わり、色々推測できるのは面白いですね。
mugurumaさん、おはようございます。
宗門改帳という資料を見られたようで、連絡有難うございます。私の手元に有る家系図は竹の筒に入っていて(「金次郎」)が書いたもので、推測ですが、昭和初期に書かれたものとおもいます。系図と墨で書いてあり墨は少し薄くなつてはいますが、竹そのものは未だに腐食の様子は有りません。
子孫は墓地のこととか、自分・自身が関係している名古屋にあるお寺には、お参りする様(九州に住んでいる妹達「姉妹」は父と一緒にお参りしている。)言われている。、、、ので私・自身も他界する前に一度は参拝しなくてはと思つています。名古屋に行った折には機会があれば、mugurumaさん(茨城の甥は結婚はまだ先の様で)に会ってお話出来ればと思つています。
K,Mさん、今晩は!
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家系図は立派な造りなんですね。
私のうちには家系図がなく、ちょっと想像できなかったので、ありがたい限りです。
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また、香川以外にも、名古屋にお墓があったり、家系の歴史の重みも感じます。
k,Mさんの家系はほぼ社家ですもんね。
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私のうちには、お参りできるお墓は、名寄にしかありません。
しかも、10年近く生まれ故郷に帰っていないので、なんだか申し訳ない感じです。
mugurumaさん、こんにちは、家系図を久しぶりに見ています。其れによると
大正13年7月に名古屋市八事(やごと)ある、善光寺別院境内に「南無家庭円満地蔵大菩薩」建立とあり、お墓ではないんです。
話は変はりますが、今、札幌駅前の大道路の通りは、「雪祭り」たけなはですね。
では又
K,Mさん、今晩は!
検索すると八事善光寺がヒットしました。
菩薩建立ということは寄進したということですね。
すごい!
雪まつりですが、私は北海道に住んでいたにも関わらず、
1度しか見たことがありません。あの混み方に疲れて、
雪まつり期間中の大通り公園には近づかなくなってしまいました。。。
あと、先日教えて頂いた六車博さんですが、富田神社の宮司さんのようです。
写真を見て思い出したのですが、私が訪れた時に、色々教えてくれた方でした。
てっきり千秋さんだと思っていましたが、博さんのようです。
mugurumaさん、今晩は、
本日は朝一番の映画を観るべく9時前から家を愚妻とともに出ました。観る映画は其々違うん(私は「渾身」愚妻は「ストロべリ・ナイト」)です。「渾身」は出雲
の沖にある「隠岐の島」が舞台です。内容は伝統ある「古典相撲」です。とても感動
する映画でした。
次に名古屋のお寺は私まだ検索してないんです。建立は0・0・円と記入「系図」に書いてあります。最後に機会があれば「渾身」は観られたら推薦します。
では又
K,Mさん、今晩は!
ここ2年くらい映画を見ていないので、
確かに映画で心を震わせるのもいいですね。
渾身のトレーラーを見ると面白そうです。
名古屋の菩薩様はお金を払った訳じゃないんですね。
とても意外に思いました。K,Mさんの家系は、総本家に近いので、
何か歴史と伝統に関係した行事なのかなと想像していました。
mugurumaさん、今晩は、祖父、金次郎は波乱に満ちた人生だつたようです。此のあたりのことは、此処では記述できませんが、相当に頑張った様です。其のあたりのことは、もしお会いした折にお話します。
札幌「雪まつり」大通りの景観、本日も「テレビニュ-ス」でやつていました。
では又。
K,Mさん、こんにちは!
波乱の人生とは、なかなか面白そうですね。
是非、お会いした時に、お聞かせください。
雪まつりの件、明日で終わりなので、
最後の追い込みをかけていることでしょう。
mugurumaさん
大変、ご無沙汰して申し訳け御座いません。
風邪で体調を崩し最初の10日で治ったと思つて、自転車で遠くえ行ったのが間違いでした。再び風邪をひき、まだ完全に治っていません。年は取りたくないものです。
さて長宗我部家の子孫に依る友親氏の著書では、東讃では仙石権兵衛秀久・15万石の記述が主で「安富氏も六車宗旦」も出場なしです。
次に井原市の六車家の「ともえ」家紋(城・寺・神社に多くある防火の神様瓦)については4月頃までに見せて貰う予定です。
では又
K,Mさん、ご無沙汰しています!
身体が資本ですから、あまり無理なさらずに!
私も花粉症でこの季節は辛くてしかたありません。
また、友親氏の記述に宗湛が出てこなくて残念。
大川町でのみ露出が多いのかもしれませんね。
mugurumaさん。お早う御座います。
永らくご無沙汰しました。昨日 井原の六車さんに電話しました。昨年以来の懸案で
有る家紋「むつどもえ」のデザインがどのようになつて居るか左・右どちら周りか、円が有り・無いのかその辺りの事を知りたかつた。電話には奥様が出られ、デザイン
は解らないとの事でした。主人は整備会社の経営は絶たんで 今は勤めているという
話でした。ちなみに墓石は井原にないので奥様はなおさら解らない様子でした。叔父さんが豊島(テシマ)に住んでおられます。
今 近くの島々は ア-ト展が開催されていて、世界各地からその道の人々が来て
展示されているそうです。日本人では安藤忠雄さんも出展しているんではないでしょうか?
ついては身内のことを書いて恐縮ですが、大阪の息子達(子供2人)も近所の夫婦連れと、其々の車で直島のア-ト展を観に記やキヤンプ(モンゴルの草原にあるもの)をして(1泊)3月31日に帰路 私の家に帰省しました。(嫁と子供2人息子は勤務の都合で他家の車で大阪え戻る。)
孫達は2日に帰るので、私ども夫婦も大阪え(嫁の運転で)行きました。5日までいて、伏見稲荷と弘法大師(私宅は高野山真言宗です。)東寺に御参りしました。稲荷神社では、何故かたまたま時間が折中したのか、台湾人か中国・本国人?か中国語が多いかつた。また白人連れも多く見かけ、中には金髪の女性が祈願所に上がり祈願してる姿もありました。なおインド人も4・5人見かけました。長くなりました、では又。
K,Mさん、今晩は!
どうもご無沙汰しています。お体は大丈夫でしたか?
「むつどもえ」の件、残念ですね。
私も家紋辞典で調べても出ていなかったので、興味があります。
豊島に行けば謎が解けるかもしれませんね。
また、ご家族で四国旅行なんてうらやましい。
私ももう一度、香川に行ってみたいと思っています。
墓やら史跡を見たいです。
あと、K,Mさんの宗派が真言宗ということで、
宗旦の子孫が西教寺の檀家であること関係ありそうですね。