事実
2012/10/28
こちらのサイトで全国の六車さんの数が表示されています。758人とのこと。ソースは電話帳の件数とのこと。
2012/03/17
昨年、白鳥町で六車さんのお墓を巡った時に、家紋を撮影させて頂きました。 ※無断でごめんなさい。 六車の由縁である六本
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2016/05/14
茨城の六車さんよりご連絡を頂きました。六車さんは熊本六車の一族の方で、なんと40年の長きに渡り、「六車」について研究
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2013/04/17
大阪市此花区にある六車商店。この地域の昔ながらの商店という感じで、近隣の生活を支えているようです。中にもお邪魔しま
2013/04/18
大阪市西成区にある六車歯科医院。こちらは「むぐるま」さんのようです。このあたりは下町のような雰囲気で、住んでいる方
2013/04/20
大阪市住之江区にある六車鉄工所。こちらも恐らく「むぐるま」さんでしょう。ナニワ企業団地の一角にありました。
2012/03/24
熊本の六車氏のことをネット調べていたら、 「六車家文書」という本が発行されているのを知りました。 国会図書館にもある
2012/12/16
K,Mさん、こんにちは。 国会図書館の憲政資料室に行き、龍馬直筆の書の話を聞いたところ、 ネットで見ることができるそ
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2012/09/21
廣瀬さんからの情報によれば、六車宗旦は旧白鳥町出身の六車家。宗旦の代で、家紋を車紋に変更したようです。 こういった情
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2013/05/02
四国に行く前に「六車」についての情報を教えて頂いたK,Mさんにお会いしに福山へ向かいました。広島には行ったことがなか
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質問
2013/04/23
K,Mさん、今晩は! 実は、ゴールデンウィーク中になんとか四国に行けないかと計画しています。その際、お時間あるようで
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全国の六車さんに参加させて下さい。私は福山市に住んでいます、生まれ育ちは北 九州市八幡西区です。北九州市には六車の苗字が可なりありました、小倉区には甥がいます。若いころ同じ職場に熊本は八代出身で六車伸一郎さんとゆう方がおられました、水泳の上手な方でした。高鍋市に六車運送会社と言う大きな会社があり社長は 讃岐出身です、福山市の隣に井原市が有り六車さんがいます、讃岐の小豆島出身です、香川県寄りの瀬戸内海の他の島にも六車さんがいます。では又、よろしく。
福山の六車さん、こんばんは! 九州の六車さんは結構多いですよね。 津奈木の六車さんが栄えたのでしょうか?
また、宮崎県の六車さんの件、 明治維新後に香川から宮崎に入植したと資料に書いてありましたので、 その方々の中に六車さんがいたのだと思っていました。 でも、その方々とは別に、香川から渡られたのですね。 その土地への定着の仕方は色々あるののだと勉強になります。
瀬戸内海の六車さんの件は、 六車氏は海賊だった可能性もあるそうなので、 瀬戸内海に広く分布したのかもと想像しています。
ちなみに、六車さんの家紋は丸に伍でしょうか? 差し障りなければ教えて頂けると幸いです。
mugurumaさん、有難う御座います。私の想像もありますが、瀬戸内の六車さんは武士として殿様安富氏を護衛の意味もあつて-緒に小豆島に落人した‐派と思われます、後に海賊になつた者も居たでしょう。次に家紋は源氏の六車をつかつています。話は飛びますが、長宗我部家は四つほど有りますね。七つかたばみ、かたばみ、 帆懸舟、慈姑とあり、長宗我部友親氏著書より抜粋、六車も幾つかあるかも。では又よろしく。
福山の六車さん、お答え頂き、ありがとうございます! 安富氏を護衛して、瀬戸内海に散っていったとは、思いもよりませんでした。 家老六車氏以外にも多数、六車氏はいたのですね。
そして、家紋の話、廣瀬さんより、家老六車氏は旧白鳥町を起源とし、 その代で家紋を車輪様に変えたと教えて頂いたので、 長宗我部氏のように、複数あってもおかしくないのかもしれません。 そうすると、熊本の六車さんの丸に伍が四国にあると代々受けて継がれ、 ひょっとしたら、源氏の六車の原型の可能性もありますね。
正直、歴史を遡る手立てはありませんが、想像を掻き立てて、面白いです。
私の手元に祖父の書いた乱筆な系図が有ります、それに依ると親父で10代めにあたります。2代長男、又左衛門,次男七兵衛、三男彦助、二代以下は名を略し男子のみ何男とする。三代三男、四代次男、五代次男、六代は五男で1番多く、七代次男、八代三男で分家であつた祖父(金次郎)が九代目を継ぐ(次男は住職である)親父で10代となり現在にいたつています。大正10年9月15日に3百50年祭を施行す。とあります。
K,Mさん、ご連絡ありがとうございます! 初代は六車宗旦ということですね。すごい! 2代長男、又左衛門、次男七兵衛、三男彦助と 「富田中村畠方検知帳」の記載と若干違いますが、 又左衛門が長男だというのは初めて知りました。 そして、大正10年に350年祭をやったというのも驚きです。 1921年なので、あと9年で450年祭! やはり、ゆかりのある地域では、脈々と受け継がれているものがあるのですね。 大変参考になりました! ちなみに、差し障りがなければ、 K,Mさんのおうちの家紋を教えて頂けないでしょうか? どうぞ、よろしくお願いいたします。
mugurumaさん失礼致しました。k、M,は福山の六車です。以後k、Mに致しますので宜しくお願いいたします。4.5年前富田中に行きました、その折富田神社にも御参りして宮司さんが千秋さんと聞いて、いたが、どうも伏せていたようで、奥様と息子(養子)さんにお会いしました、神社 も六車の石碑も立派です。八幡神社の御霊は宇佐八幡神社とありました。では又
社
K,Mさん、こちらこそ失礼しました。 富田神社は又兵衛の子孫と大川町史にありますが、 又兵衛は六車宗旦の子と記載がなかったので、 ひょっとしたら、直系という意味では、 K,Mさんの家系が当てはまるのかもと思ってしまいました。
私も昨年、富田神社に訪れたのですが、 千秋さんと思われる14代の方とお会いしました。 私みたいに、時折、「むぐるま」の名前を持つ人が 遠くから来るとのこと。 家紋もK,Mさんと同様、六本骨源氏車と教えて頂きました。
mugurumaさん、今日は、今系図を見ています、雨瀧山之城主、安富左京亮紀之盛安は細川勝元の四天王の随一、大内郡、寒川郡、三木郡、山田郡、を統治するとあり、先祖、六車左衛門尉宗旦です。戦後、墓参に父親と行つた折の記憶では六車宗旦の石碑は一枚石で道路に面して居ました。道路を挟んで側にありました。ご存じ昔は大川郡といつて居ました。今わ「さぬき」市です。六車の総本家は富田神社の宮司六車千秋様の他に六車宗旦の建立している近くの人で、2,3軒、うちが本家だと争つていると、当時、道路の拡張工事をしていた六車さんから聞いた記憶があります、又その方は全国の六車の会を開催したらとも語つていました。今から65,6年前の事です。では又、よろしく。
K,Mさん、系図を教えて頂き、ありがとうございます! 総本家もやはりいらっしゃるんですね。 ということは、k,Mさん同様又左衛門の子孫でしょうか。 やはり、歴史のある土地や地域って、いいですね。 私は4代遡れればいい方なので、うらやましいです。 全国の六車さん会、大変興味があります。 色々な六車さんに話を聞いて、疑問を解消できればうれしいなと思います。
mugurumaさん、総本家とはちよつとの違いで変わる事もあるのですね、他家の例をとつて申し訳ないですが、18代?細川家の当主は護煕さんですが、昔、政治評論家に,細川隆元、さんが、いつていました。細川の本流は本当は我が家ですと。この様に先代の長兄が継ぐのと、次男、三男が継ぐのと,ちょつとの違いが、いい分と成るのでしょう。二代目、又三郎の子孫の件は、次の機会に宜しく、お願いします。
K,Mさん、ご連絡ありがとうございます! 確かにその他大勢は私も含めたくさんいますからね。 総本家は総本家で大変なこともありそうです。
ちなみに、ご記載頂いた又三郎とはこれまでに出ていない方でしょうか? というのも安富氏は又三郎を代々つかっているそうで、 曽江山家系の六車氏は安富氏から分かれているようなんです。 もしかしたら、安富氏からの系譜につながるのかもと思ってしまいました。
mugurumaさん、前回の又三郎の記載間違いました。大変申し訳ありません、失礼しました。今迄のmugurumaさんとのやり取りの中で、幾つかの違いが出てきましたね、又左衛門と又兵衛、大川町史の記載が正しいのでしょうね、このあたりの事は全系統家系図を調べれば判るでしょうが、専門の行政書士さんに依頼すれば大変なお金が掛かりますね、以前、墓参の折、墓地下の六車さんに水を貰った時、系図を見せて貰いました。京都の方で手に入れたと、おっしやっていました。その折写真にとつていたのぜすが、せつかくの物がうつうつてなく、立派な系図であつただけに、今になつて後悔しています。では又
いえいえ、k,Mさんから教えて頂く情報は、私の全く知らないことが多いので、大変助かります。 正直昔の記載はどれが正しいのか今となっては確かめようがないので、K,Mさんの記述が正しいかもしれません。 全系統家系図や京都で系図を手に入れたという情報ももとても興味があります。 出来ればお金をあまりかけずに、謎解きができればいいですね。 私の家系も丹生に墓があるらしいとのことなので、時間がある時に行ってみたいなと思っています。
mugurumaさん、今日は、昔の事に成りますが、松竹で映画を製作されていた、六車修さんをご存じですか?戦時中であったので戦意高揚の映画を多く製作したかどで戦後、G、H、QからB級戦犯になった人です。次に若い人で、民族学者の六車由美さん、検索すると、何か勉強になるかも。
K,Mさん、ご連絡ありがとうございます! 六車修さんのことは知りませでした。 映画の本を結構書かれているようですね。 六車由美さんは、静岡の方のようで、是非本を読みたいなと思っています。 母が買ったと言っていましたので、帰省した時に借りる予定です。 世の中の普通の人に話しを聞くというのが良いと思いました。
mugurumaさん、今日は、先週19日に小豆島に旅行してきました。 オリーブ園、寒霞渓、等、見てきました。又、苗字、六車について電話帳で調べた処1軒だけ有りました。電話をさつそくして見ましたが、通話が出来ませんでした。 それにしても、1軒だけで、想像外でした。小豆島の人口は31000人と有りますが、小豆島は小豆島郡に有り他の島々、直島、豊島も含まれるのか範囲がわかりません。又、今年の初めごろだつたか、nhkで半農、半漁で、何処の島だつたか、六車さんを紹介して居ました。電話帳の六車正治様とは違つていました。24日に電話が通じ正治様と話すと2代目で先は解らんとおつしゃつていました。出は志度町といつていました。歴史続本、日本の苗字ベスト30000によりますと、(発行2003年3月新人物往来社)人口102万2千人の香川県のみで六車は107位にあり517件です。では又
K,Mさん、ご連絡頂き、ありがとうございます! 小豆島を旅行とはうらやましいです。 私も前に電話帳で香川県の六車さんを調べましたが、 小豆島には確か掲載がなかったような記憶があります。 実はいらっしゃったのですね。 志度町を検索すると旧大川郡となっていましたので、 やはり家老六車氏と同じなのかもしれません。
mugurumaさん、今日は、小豆島の続です、井原市の六車さんを小豆島の出身と以前言いましたが、私の家から車で10分の所に自動車修理工場を営んでいました。どうも他界されている様で、現在は営んでいません。兄弟が井原に居る様なので、電話で小豆島の事を聞いて見ようとおもつています。東讃から戦国の世に小豆島に渡る?違うかも知れないが、勝手に思つています。小豆島(寒霞渓)は今紅葉が見頃です。又ギネス、ブツクスに登録されている世界1狭い海峡が有りました。では又。
K,Mさん、どうもお世話になります! 小豆島に安富氏が避難したので、私も可能性あると思います。 お時間ある時に、井原市の六車さんの続きを教えてください! 電話帳で調べた時に、岡山県も六車さんが多い印象があったので、 小豆島と関係あるのかもしれません。 瀬戸内海には一度しか行ったことがありませんが、 船であっちこっち行けるのって面白いですね。
mugurumaさん、今日は、井原市の六車さんの件解りました。結論を言いますとお元気で笠岡市に弟さんが居ました。小豆島の六車さんとは伯父(叔父)の関係で有りました。家紋については聞きそびれたので次の機会に聞いて見たいとおもつています。所でmugurumaさんは今の住所はどちらですか、県名だけでも知らせられたら教えてください。ではまた。
K,Mさん、ご連絡頂き、ありがとうございます! k,Mさんの行動力の速さは、スゴイですね。 岡山の六車さんは、小豆島から広がった可能性がありますね。 家紋ももし判るようでしたら、ぜひお教えください。
私の住んでいるところですが、神奈川県です。 関西・四国になかなか行けないのが残念です。 それでも、北海道に住んでいる頃よりは、 国会図書館などで調べられるので、便利になりました。
mugurumaさん今晩は、なんとなく神奈川県辺りではないかと思つていました。私も縁があります。義兄が横浜に住んでいます。六車と関係ないですが、徳川家康に引き立てられた、ウイリアム・アダムス(日本名・三浦安針)、外人で初めて旗本になつた人物の墓が京浜急行・安針塚駅からすぐ近くの山の上に立派なのが有りますね、、、本墓は長崎県平戸市に有りますが、横道にそれて御免下さい。では、又
K,Mさん、どうもお晩です! k,Mさんは博識ですね。 関東は鎌倉幕府・江戸幕府があったので、 なかなか歴史的なものも多いようです。
折角関東にいるので、 六車宗旦の先祖が関東の豪族ということで、 それがどの地域なのか知りたいのですが、 詳しく書かれたものがないんです。
安富氏も下総の出ということも書いてあり、 ひょっとしたらそのことなのかなとも思っています。
もし、横浜に出てこられることがあれば、 お会い出来れば嬉しいですね。私は、川崎の西部に住んでいるので、 横浜方面も比較的アクセスが便利です。
mugurumaさん、今晩は、宗旦の出が関東であれば何か、手掛かりが有りそうですね?安富氏は下総の出で有れば、下総方面が有力かも?先の先ずつと辿る事は中々むつかしいですが、其れだけに興味が有りますね、例えば私の住うんでいる近くに豪族であつた堤さんとゆう人がいます。毛利元就に加担して豊臣秀吉、ご存じ関ヶ原の戦いに敗れ-緒に長州に流れたため、山口県には堤の性が多く有る様に聞いています。地元には少なくなつている。此の続きは夜も遅くなつたので次回に回して失礼します。では又、宜しく。
K,Mさん、今晩は!
そうなんです。ご指摘のとおり、難しいから調べたくなるんです。 時間のある時に、仮説で記事を上げたいと思っているのですが、 六車氏がどっからどこを経て讃岐にたどり着いたのかがわかれば面白いなと。 あまり多い苗字じゃないので、それが逆に手掛かりになるのではと想像しています。
K,Mさんの紹介してくれた事例のように、私も河野さんからお話を伺いました。 先祖は伊予の河野氏なのですが、近親は大分とのこと。 その近辺にはかわのさんが多く、呼び方を変えているそうです。
この例を聞いて、「むぐるま」と「ろくしゃ」の2つの呼び方があるのも 歴史的な何かがあったのかもと推測した次第です。 糸口はつかめないのですが、事実は1つなだけに、歴史って面白いなと思います。
mugurumaさん、今晩は、堤さんの件、やや難しく成りますが、此の地方に掛谷さんとゆう苗字が有ります。有る掛谷さんの処に堤家から養子に入られ1世紀も前でしょうか?此の時期・期間は5・6年前でしょうか?90歳を過ぎた方でしたが、しつかりした方で、お話を聞かせて戴きました。この方のお兄さん達は掛谷の性のままで、この方は神原家に養子に入りました。話は飛躍しますが、40年ほど前でしょうか、ある日、福岡県の方から堤さんが訪れ堤の地を聞かれたそうで、墓地の土を持つて帰りたいから、ついてはその地を紹介してほしいと言われたので、墓地と管理しておられる堤さんを紹介して土をもらつて帰られたそうです。その方がどうも総本家か?又はそれに準ずる人だつたと、当時、神原さんは、いつて居りました。福岡県行橋市に墓石を建立したそうです。山口県から福岡県へと移動しています。此の様に永い間には色々とありますね。ついては河野(かわの)さん言われるとおうり伊予には多いです。瀬戸内海の因島に家内の友人で、河野(こうの)さんがいます。「むぐるま」・「ろくしや」元々「ろくしや」は私の推測では無いと思います。次回に.
K,Mさん、今晩は! 長い年月で移動も多いですもんね。 昔なら、戦争があれば滅びるか離散かという感じでしょうから。
「むぐるま」「ろくしゃ」の源流は どちらというと私も「むぐるま」だと思います。 ただ、太田亮さんの書いた「姓氏家系大辞典」だと ろくしゃ宗旦という記述になっていました。 このあたりの真実はどっちかは気になっています。
また、想像の域を出ないのですが、「むぐるま」は 元々車持氏のいた群馬で誕生し、牛車の車を直す職人として、 今の豊中市に定住するのようになったのではないでしょうか。 群馬に「むくるま」という地名もありました。 時期は古代~平安くらいです。
そこで、車持氏の力が弱くなったことで、豪族に。 しかし、原田氏にその地盤を脅かされているところ、 細川氏の被官である寒川氏が六車郷を支配し、 その縁で取り立てられて白鳥町に移住。 この時期が鎌倉時代~室町時代くらいです。
その後、白鳥町から富田の方へ移り、 安富氏の家臣になったのかなと調べていて思いました。 各資料には断片的にしか「むぐるま」の記載がないので、 そういう資料に出会えた時はとても嬉しいです。
mugurumaさん、お早うございます。昨晩のメ-ル、最後にトラブツテ仕舞い失礼しました。教養がなく・能力も無いので、今迄に2回ほどp、cを壊しています。利き手は右利きですが、薬指と小指が少し曲っていてキ-ボ-ド当るので左手で打つ手います。本題にはいります。「むぐるま」と「ろくしや」私の家の前は道路・川を挟うんで通学路であり、かつ行の散歩道でもあります。此処に住んで30数年に成りますが、今迄に3,4回、散歩している人から表札を見て、なんと読むか?と尋ねられたことが有ります。呼び名は幾通りもあります、「ろくしや」と言ってしまえば漢字がそうなのでそれで決ってしまいますね、そんなもんだと、思つています。太田さんもそのたぐいでは無いでしょか?群馬県に「むぐるま」と、言う地名驚きました。何年か前に草津温泉、嬬恋村、方面に旅行しましたが気がつきませんでした。近くに六 合とゆう地名が地図を見たら有りました。次に安富氏の件で、苗字の富と冨違いで「冨」が11293けん「富」が2901件とありました。そのあたりの事を図書館にいつて見て見たいと思つています。mugurumaさんはその点、国立国会図書にも行けてよいですね、、、謎だらけの「船中八策」とは違い「新政府綱領八策」は龍馬自筆と見られるものが国会図書館憲政資料室(石田英吉文書)に所蔵されているそうです。では又。
K,Mさん、今晩は! いつも大変な中、お付き会い頂き、申し訳ありません。 でも、K,Mさんの情報提供は貴重です。
「むぐるま」と「ろくしゃ」の件、 K,Mさんのご指摘のとおりですよね。 第三者には難しい読み方ですから。 私もこれまでちゃんと呼んでもらえる方が稀です。
ちなみに、群馬県は「むくるま」です。 濁りません。由緒は武田信玄時代になるそうなんですが、 私はそうではないと睨んでします。 恐らくかなり古い時代からあったのではと。 一度行きましたが、隠れ里のような感じでした。 そして、六車姓はありませんでした。 ここらへんの関わりがわかれば面白いなと個人的に思います。
龍馬書いた「新政府綱領八策」が憲政資料室にあるのですね! 憲政資料室の名前は気になっていましたが、 一度も行ったことがありませんでした。
ここ半年くらい時間がなくて、国会図書館に行けてないのですが、 時間ができたら行ってみたいと思います。
muguruma さん今晩は!群馬の「むくるま」さんは濁らないんですね。地名として「六車」漢字なんでしょうか?六車性はないとの事、其のあたりが不思議ですね。六車とは関係ないですが、坂本竜馬の妻であつた、お龍さんの墓が「京急大津」近く浄土宗信楽寺(しんぎょうじ)に有り、何故か「阪本)になつているそうですね。遅く成りました、井原市の六車家の家紋は「むつどもえ」と奥様から聞きました。では又
K,Mさん、どうもお晩です!
群馬の「むくるま」は、漢字でしたが、 六炉間とも呼んでいたとのこと。 かなりの谷筋で隠れ里っぽい感じでした。
群馬が車持氏の影響下にあり、 車の里と呼ばれていたようなので、 その関連なのかなと思っています。 六車氏がいたとしても古代以前なのではないでしょうか。 根拠もない想像です。
京急沿線って、結構歴史にまつわるところが多いので、 今度行ってみますね。金沢文庫も興味があるのですが、 まだ行ったことないんです。
そして、井原市の六車さんの調査の件、ありがとうございます! 「むつどもえ」という家紋を検索したのですが、出て来ませんでした。 勝手に考察すると、「巴が六つ」か「車紋に三つ巴」のなのでしょうか。 それにしても、苗字にちなんで「六」を用いるあたりは流石ですね。 こういう事実は調べようがないので、K,Mさんにはとても感謝しています。
結構色々な六車氏も色々な家紋がありそうなので、 そのうち記事に出来ればと考えています。
muguruma さん、今日は群馬の件有難うございます。明日、図書館に行く予定にしているので、家紋の勉強をと思つています。京急に追浜が有りますね、此処に日産自動車(以前は日本飛行機)が有りますね、此処に熊本の六車さん転職して行ったのではと勝手に想像しています。もしそうだとすると追浜方面の電話帳に掲載されているかもと?思いよります。最後に成りましたが、muguruma さんは色々と勉強されていますね。感服します。では又
色々教えて頂き、ありがとうございます。 勉強しているなんて、とんでもないです。 まだまだ、ひよっこですから。
家紋の勉強、いいですね。 最近色々教えて頂いているので、情報の整理も含めて、 調べにいきたいと思っているのですが、やれていないのが現状です。
皆さんからの情報では、六車の家紋も結構色々ありそうなので、 そのあたりも調べることができると面白いなと思っています。
muguruma さん、昨夜コ-ナの違う所えコメントしてしまい失礼しました。それは、六車氏の変遷についての推測コ-ナにコメントしたこ事です。家紋については支流が多いほど様々で当然の成り行きかと思つたりします。昨日・図書館に行きましたが、試験シ-ズンか?満員で座る椅子も無いほどでした。貸出し出来ない図書で視たいのがあつたのですが、貸出し出来るのを借りてきました。では又
K,Mさん、コメントはどこにして頂いても大丈夫ですよ! 家紋の件、代毎に簡単に変えれちゃうから、成り行きという言葉がシックリ来ますね。 代々受け継がれている方が、奇跡に近いのかもしれません。 色々教えて頂き、私も勉強になります!
mugurumaさん、昨日、図書館に久しぶり行きました。気になつていた図書を閲覧出来ました。やっと解りました、群馬県甘楽郡南牧村(なんぼくむら)六車、図書では、「むぐるま」となつて居ました。mugurumaさんのおつしゃるp・cでは「むくるま」ですね、南牧村の六車は東西南北kanari,hiroi,hanini,arimasune.p.c,toraburu,hiruni,mata
mugurumaさん、昨日は失礼いたしました。キ-打ち込み中、漢字の変換が出来なくなりました。昨日にひきつずきます、甘楽郡六車は大字になつていて広範囲にあり面積にしたらとてつもなく広いのにきずきました。何故か?山岳地帯だからでしょうね、mugurumaさんが行った折に、その様な感じのコメントがあつたのを思いだしました。ntt さんに問い合わせたんですが、六車の企業も苗字の六車も無いとの事でした。せめて農林業が盛んであれば何かヒントに成るものがあつたかも知れませんがmugurumaさんは車持氏の事をコメントしていました。少しそれますが、群馬県はキャベツの生産、日本-で海抜700m 以上は害虫がつかないそうで、きれいな、キャベツです。それにかんがみ思うには材木に害虫がつかなく立派な堅い材木が育つのではないのでしょうか?其れにより立派な車輪が出来、発展した、-時期があつたと、思ったりします。飛躍でしょうか、其れにしても群馬の六車は不思議ですね、、、では又
K,Mさん、こんばんは! K,Mさんの林業と車輪の仮説、確かにその関連性があるかもしれません。 実際、「むくるま」を訪れた時に、田畑もそれほど作れなさそうな土地で、 食べるとしたら林業くらいかなと思いました。 木工の技術に長けた職人衆として、車持氏の影響下にあった土地に派遣されたのも頷けます。 ひょっとすると、全国各地に「六車」氏が派遣され、車持氏が衰退した時に、たまたま力をもった一族が摂津だったのかもしれません。 もう事実にはなかなかたどり着けないのかもしれませんが、大昔に想いを馳せるのも楽しいですね。
mugurumaさん、今日は、昔の事を色々探索するのは勉強になつておつしゃるとうり楽しいものです。処で群馬から摂津市への移動の件、どうゆう経過か解れば教えてください。*難読・異読・地名辞典の著者・楠原佑介さんに依れば群馬の六車(むぐるま)はこの読み方です。地図で検索すると前にもコメントした通り地域範囲が広いのが解ります。では又
K,Mさん、こんばんは! 群馬から摂津への移動は、全くの仮説です。 事実を裏付けるものには辿りついていません。
ただ、色々と符号する事実があったもので、そうではないかと推測しています。 1.車持氏にちなんだ苗字のようであること(参考はhttps://sixwheel.net/wp/blog/2012/08/17/title-58/) 2.車持氏が支配した地域が今の高崎付近で、その一帯を「車の里」と呼ばれていたこと(参考はhttps://sixwheel.net/wp/blog/2012/07/15/title-49/) 3.車持氏と関係のある地域が全国にあり、そこに摂津が含まれていること(参考はhttps://sixwheel.net/wp/blog/2012/08/26/title-42/) 4.大川町史によると六車宗湛の先祖は、関東の豪族であると言ってること(参考はhttps://sixwheel.net/wp/blog/2012/03/24/title-24/) 5.車持氏の摂津遷移(参考はhttp://8906.teacup.com/toraijin/bbs/1495)
車持氏と六車の関係がもう少し判るものがあればいいのですが、今の所資料としては発見できていません。 また、「むくるま」ではなく「むぐるま」と呼ぶ可能性があるのですね。 尚更、近づいている気がします。
mugurumaさん、色々と教えて戴き有難うございます。5、については途轍もなく博識な方ですね。私の微小な能力ではついて行けません、でも難しくても知った限り読まなくてはとおもつています。来年まで持ち越しに成りますが。2については又トラブルになつて居るので家内の起床待ちにしています。懸案事項が多く、来年に持ち越しばかりで、mugurumaさんには申しわけなく思つています。
私の祖父(1978年没)は香川県大川郡(現さぬき市)富田から養子としておなじ郡内(現東かがわ市)町田(丹生)の池田家に婿養子で入りました。以下私が幼いころの聞きかじりです。 祖父は実家を六車「本家」と言っていました。雨滝山の南麓で六車城址からもごく近い場所です。この「本家」という表現が富田に所在する六車一族の総本家を指すかどうかわかりませんが、祖父が幼い時おばあさんから聞いた話として、昔殿様(江戸時代の髙松藩?)が巡回に来られた時、二本差しの侍たちが屋敷に居座って恐ろしかったという言い伝えを聞いたことがあります。そのおばあさんは安富家出身と聞いたかすかな記憶があるので、その屋敷が六車家をさすものか安富家のものか定かではありませんが、いずれにしても、その当時(江戸後期?)藩の役人が巡察にやってきたときの接待饗応ができる家柄だったのでしょう。ちなみに我が池田家はくだんの祖父のさらに2代前に同じ富田の六車「本家」から嫁を迎えており、その縁で祖父を養子に迎えたと伝え聞いています。明治初期池田家もそれなりの財力があったらしく、六車家ともおなじ宗旨の「真言宗」で法事など行き来しやすかったと聞いています。
池田さん、ご連絡ありがとうございます!
以前、広島の六車さんより、 六車の総本家がいくつかあると教えて頂いたので、 そちらの出自かもしれませんね。 そして、殿様の接待とは!安富氏だとしても、 平民になった所にわざわざ訪れるとはスゴイなと思います。
また、宗旨が「真言宗」というのも貴重な情報です。 私の家では浄土真宗に変わってしまい、祖父が北海道に渡った時に、 家紋同様変えてしまったのかもと思ってしまいました。
余談ですが、祖父の妹が池田家に嫁いだという話を聞ききました。 東かがわ市では結構多い苗字なのでしょうか?
わたしは香川県大川郡津田町出のものですが、同郡津田町史には、長宗我部氏の讃岐に侵攻のおり小豆島に逃れた安富氏にかわり、雨滝城を献身的に守備した六車宗旦さまの記述があります。 結果的には雨滝城は落城するも、六車(むぐるま)宗旦さまを慕い、当地には六車(むぐるま)姓が多いとのこと。
六車姓でルーツ探しをされたいみなさま、歴史に明らかなご先祖さまの記録はさぬき市にあるとおもわれます。ぜひさぬき市においでください。
ちなみに私は讃岐の国の国造、神櫛大王の末孫の末、戦国時代は安富氏と争乱ののち大内郡他を割譲した氏族の末のものですが……………。 六車姓の仲良し同級生がいく人かいたので、六車姓は方は大好きです。
P.S 高松市図書館のHPで高松藩士由緒録というものがございます。 讃岐の国の名族のほとんどは豊臣秀吉の島津征伐の際の戸次川の戦いで嫡流と言われる家は滅び土着した傍系の子孫が経済的な貢献や筋目のものとして藩士にとりたててられた経緯が載っています。
六さん、いいや寒川さんですね! ご連絡ありがとうございます!
苗字は東讃ですが、実情は全くわからないので、 嫡流が滅びたという下り、知らないことで驚きました。 その戦いで長町氏から養子を迎えた六車長門守朝政が亡くなっていますので、 六車宗湛としては朝政が嫡流という思いが強かったのかもしれません。 長町氏も長男を六車氏に養子として送り出しているので その心意気に応えたものかもと思いました。
ひとつ質問がありまして、宗湛を慕って六車姓を名乗ったと教えて頂きましたが、 ひょっとしたら、全く血縁の無い方も六車姓を名乗った可能性があるということでしょうか? もし、ご存知なら教えて頂ければ幸いです。 どうぞ、よろしくお願いいたします。
初めまして。六車裕之です。珍しい名前で戸惑っていましたが六車って名前は沢山居るって知って安心しました。
六車さん、初めまして!私の周りにも六車性は全然いませんでしたが、実は結構いらっしゃるんですよね。調べてみて良かったです。
名前
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六車氏の変遷についての推測 »
全国の六車さんに参加させて下さい。私は福山市に住んでいます、生まれ育ちは北
九州市八幡西区です。北九州市には六車の苗字が可なりありました、小倉区には甥がいます。若いころ同じ職場に熊本は八代出身で六車伸一郎さんとゆう方がおられました、水泳の上手な方でした。高鍋市に六車運送会社と言う大きな会社があり社長は
讃岐出身です、福山市の隣に井原市が有り六車さんがいます、讃岐の小豆島出身です、香川県寄りの瀬戸内海の他の島にも六車さんがいます。では又、よろしく。
福山の六車さん、こんばんは!
九州の六車さんは結構多いですよね。
津奈木の六車さんが栄えたのでしょうか?
また、宮崎県の六車さんの件、
明治維新後に香川から宮崎に入植したと資料に書いてありましたので、
その方々の中に六車さんがいたのだと思っていました。
でも、その方々とは別に、香川から渡られたのですね。
その土地への定着の仕方は色々あるののだと勉強になります。
瀬戸内海の六車さんの件は、
六車氏は海賊だった可能性もあるそうなので、
瀬戸内海に広く分布したのかもと想像しています。
ちなみに、六車さんの家紋は丸に伍でしょうか?
差し障りなければ教えて頂けると幸いです。
mugurumaさん、有難う御座います。私の想像もありますが、瀬戸内の六車さんは武士として殿様安富氏を護衛の意味もあつて-緒に小豆島に落人した‐派と思われます、後に海賊になつた者も居たでしょう。次に家紋は源氏の六車をつかつています。話は飛びますが、長宗我部家は四つほど有りますね。七つかたばみ、かたばみ、 帆懸舟、慈姑とあり、長宗我部友親氏著書より抜粋、六車も幾つかあるかも。では又よろしく。
福山の六車さん、お答え頂き、ありがとうございます!
安富氏を護衛して、瀬戸内海に散っていったとは、思いもよりませんでした。
家老六車氏以外にも多数、六車氏はいたのですね。
そして、家紋の話、廣瀬さんより、家老六車氏は旧白鳥町を起源とし、
その代で家紋を車輪様に変えたと教えて頂いたので、
長宗我部氏のように、複数あってもおかしくないのかもしれません。
そうすると、熊本の六車さんの丸に伍が四国にあると代々受けて継がれ、
ひょっとしたら、源氏の六車の原型の可能性もありますね。
正直、歴史を遡る手立てはありませんが、想像を掻き立てて、面白いです。
私の手元に祖父の書いた乱筆な系図が有ります、それに依ると親父で10代めにあたります。2代長男、又左衛門,次男七兵衛、三男彦助、二代以下は名を略し男子のみ何男とする。三代三男、四代次男、五代次男、六代は五男で1番多く、七代次男、八代三男で分家であつた祖父(金次郎)が九代目を継ぐ(次男は住職である)親父で10代となり現在にいたつています。大正10年9月15日に3百50年祭を施行す。とあります。
K,Mさん、ご連絡ありがとうございます!
初代は六車宗旦ということですね。すごい!
2代長男、又左衛門、次男七兵衛、三男彦助と
「富田中村畠方検知帳」の記載と若干違いますが、
又左衛門が長男だというのは初めて知りました。
そして、大正10年に350年祭をやったというのも驚きです。
1921年なので、あと9年で450年祭!
やはり、ゆかりのある地域では、脈々と受け継がれているものがあるのですね。
大変参考になりました!
ちなみに、差し障りがなければ、
K,Mさんのおうちの家紋を教えて頂けないでしょうか?
どうぞ、よろしくお願いいたします。
mugurumaさん失礼致しました。k、M,は福山の六車です。以後k、Mに致しますので宜しくお願いいたします。4.5年前富田中に行きました、その折富田神社にも御参りして宮司さんが千秋さんと聞いて、いたが、どうも伏せていたようで、奥様と息子(養子)さんにお会いしました、神社 も六車の石碑も立派です。八幡神社の御霊は宇佐八幡神社とありました。では又
社
K,Mさん、こちらこそ失礼しました。
富田神社は又兵衛の子孫と大川町史にありますが、
又兵衛は六車宗旦の子と記載がなかったので、
ひょっとしたら、直系という意味では、
K,Mさんの家系が当てはまるのかもと思ってしまいました。
私も昨年、富田神社に訪れたのですが、
千秋さんと思われる14代の方とお会いしました。
私みたいに、時折、「むぐるま」の名前を持つ人が
遠くから来るとのこと。
家紋もK,Mさんと同様、六本骨源氏車と教えて頂きました。
mugurumaさん、今日は、今系図を見ています、雨瀧山之城主、安富左京亮紀之盛安は細川勝元の四天王の随一、大内郡、寒川郡、三木郡、山田郡、を統治するとあり、先祖、六車左衛門尉宗旦です。戦後、墓参に父親と行つた折の記憶では六車宗旦の石碑は一枚石で道路に面して居ました。道路を挟んで側にありました。ご存じ昔は大川郡といつて居ました。今わ「さぬき」市です。六車の総本家は富田神社の宮司六車千秋様の他に六車宗旦の建立している近くの人で、2,3軒、うちが本家だと争つていると、当時、道路の拡張工事をしていた六車さんから聞いた記憶があります、又その方は全国の六車の会を開催したらとも語つていました。今から65,6年前の事です。では又、よろしく。
K,Mさん、系図を教えて頂き、ありがとうございます!
総本家もやはりいらっしゃるんですね。
ということは、k,Mさん同様又左衛門の子孫でしょうか。
やはり、歴史のある土地や地域って、いいですね。
私は4代遡れればいい方なので、うらやましいです。
全国の六車さん会、大変興味があります。
色々な六車さんに話を聞いて、疑問を解消できればうれしいなと思います。
mugurumaさん、総本家とはちよつとの違いで変わる事もあるのですね、他家の例をとつて申し訳ないですが、18代?細川家の当主は護煕さんですが、昔、政治評論家に,細川隆元、さんが、いつていました。細川の本流は本当は我が家ですと。この様に先代の長兄が継ぐのと、次男、三男が継ぐのと,ちょつとの違いが、いい分と成るのでしょう。二代目、又三郎の子孫の件は、次の機会に宜しく、お願いします。
K,Mさん、ご連絡ありがとうございます!
確かにその他大勢は私も含めたくさんいますからね。
総本家は総本家で大変なこともありそうです。
ちなみに、ご記載頂いた又三郎とはこれまでに出ていない方でしょうか?
というのも安富氏は又三郎を代々つかっているそうで、
曽江山家系の六車氏は安富氏から分かれているようなんです。
もしかしたら、安富氏からの系譜につながるのかもと思ってしまいました。
mugurumaさん、前回の又三郎の記載間違いました。大変申し訳ありません、失礼しました。今迄のmugurumaさんとのやり取りの中で、幾つかの違いが出てきましたね、又左衛門と又兵衛、大川町史の記載が正しいのでしょうね、このあたりの事は全系統家系図を調べれば判るでしょうが、専門の行政書士さんに依頼すれば大変なお金が掛かりますね、以前、墓参の折、墓地下の六車さんに水を貰った時、系図を見せて貰いました。京都の方で手に入れたと、おっしやっていました。その折写真にとつていたのぜすが、せつかくの物がうつうつてなく、立派な系図であつただけに、今になつて後悔しています。では又
いえいえ、k,Mさんから教えて頂く情報は、私の全く知らないことが多いので、大変助かります。
正直昔の記載はどれが正しいのか今となっては確かめようがないので、K,Mさんの記述が正しいかもしれません。
全系統家系図や京都で系図を手に入れたという情報ももとても興味があります。
出来ればお金をあまりかけずに、謎解きができればいいですね。
私の家系も丹生に墓があるらしいとのことなので、時間がある時に行ってみたいなと思っています。
mugurumaさん、今日は、昔の事に成りますが、松竹で映画を製作されていた、六車修さんをご存じですか?戦時中であったので戦意高揚の映画を多く製作したかどで戦後、G、H、QからB級戦犯になった人です。次に若い人で、民族学者の六車由美さん、検索すると、何か勉強になるかも。
K,Mさん、ご連絡ありがとうございます!
六車修さんのことは知りませでした。
映画の本を結構書かれているようですね。
六車由美さんは、静岡の方のようで、是非本を読みたいなと思っています。
母が買ったと言っていましたので、帰省した時に借りる予定です。
世の中の普通の人に話しを聞くというのが良いと思いました。
mugurumaさん、今日は、先週19日に小豆島に旅行してきました。
オリーブ園、寒霞渓、等、見てきました。又、苗字、六車について電話帳で調べた処1軒だけ有りました。電話をさつそくして見ましたが、通話が出来ませんでした。 それにしても、1軒だけで、想像外でした。小豆島の人口は31000人と有りますが、小豆島は小豆島郡に有り他の島々、直島、豊島も含まれるのか範囲がわかりません。又、今年の初めごろだつたか、nhkで半農、半漁で、何処の島だつたか、六車さんを紹介して居ました。電話帳の六車正治様とは違つていました。24日に電話が通じ正治様と話すと2代目で先は解らんとおつしゃつていました。出は志度町といつていました。歴史続本、日本の苗字ベスト30000によりますと、(発行2003年3月新人物往来社)人口102万2千人の香川県のみで六車は107位にあり517件です。では又
K,Mさん、ご連絡頂き、ありがとうございます!
小豆島を旅行とはうらやましいです。
私も前に電話帳で香川県の六車さんを調べましたが、
小豆島には確か掲載がなかったような記憶があります。
実はいらっしゃったのですね。
志度町を検索すると旧大川郡となっていましたので、
やはり家老六車氏と同じなのかもしれません。
mugurumaさん、今日は、小豆島の続です、井原市の六車さんを小豆島の出身と以前言いましたが、私の家から車で10分の所に自動車修理工場を営んでいました。どうも他界されている様で、現在は営んでいません。兄弟が井原に居る様なので、電話で小豆島の事を聞いて見ようとおもつています。東讃から戦国の世に小豆島に渡る?違うかも知れないが、勝手に思つています。小豆島(寒霞渓)は今紅葉が見頃です。又ギネス、ブツクスに登録されている世界1狭い海峡が有りました。では又。
K,Mさん、どうもお世話になります!
小豆島に安富氏が避難したので、私も可能性あると思います。
お時間ある時に、井原市の六車さんの続きを教えてください!
電話帳で調べた時に、岡山県も六車さんが多い印象があったので、
小豆島と関係あるのかもしれません。
瀬戸内海には一度しか行ったことがありませんが、
船であっちこっち行けるのって面白いですね。
mugurumaさん、今日は、井原市の六車さんの件解りました。結論を言いますとお元気で笠岡市に弟さんが居ました。小豆島の六車さんとは伯父(叔父)の関係で有りました。家紋については聞きそびれたので次の機会に聞いて見たいとおもつています。所でmugurumaさんは今の住所はどちらですか、県名だけでも知らせられたら教えてください。ではまた。
K,Mさん、ご連絡頂き、ありがとうございます!
k,Mさんの行動力の速さは、スゴイですね。
岡山の六車さんは、小豆島から広がった可能性がありますね。
家紋ももし判るようでしたら、ぜひお教えください。
私の住んでいるところですが、神奈川県です。
関西・四国になかなか行けないのが残念です。
それでも、北海道に住んでいる頃よりは、
国会図書館などで調べられるので、便利になりました。
mugurumaさん今晩は、なんとなく神奈川県辺りではないかと思つていました。私も縁があります。義兄が横浜に住んでいます。六車と関係ないですが、徳川家康に引き立てられた、ウイリアム・アダムス(日本名・三浦安針)、外人で初めて旗本になつた人物の墓が京浜急行・安針塚駅からすぐ近くの山の上に立派なのが有りますね、、、本墓は長崎県平戸市に有りますが、横道にそれて御免下さい。では、又
K,Mさん、どうもお晩です!
k,Mさんは博識ですね。
関東は鎌倉幕府・江戸幕府があったので、
なかなか歴史的なものも多いようです。
折角関東にいるので、
六車宗旦の先祖が関東の豪族ということで、
それがどの地域なのか知りたいのですが、
詳しく書かれたものがないんです。
安富氏も下総の出ということも書いてあり、
ひょっとしたらそのことなのかなとも思っています。
もし、横浜に出てこられることがあれば、
お会い出来れば嬉しいですね。私は、川崎の西部に住んでいるので、
横浜方面も比較的アクセスが便利です。
mugurumaさん、今晩は、宗旦の出が関東であれば何か、手掛かりが有りそうですね?安富氏は下総の出で有れば、下総方面が有力かも?先の先ずつと辿る事は中々むつかしいですが、其れだけに興味が有りますね、例えば私の住うんでいる近くに豪族であつた堤さんとゆう人がいます。毛利元就に加担して豊臣秀吉、ご存じ関ヶ原の戦いに敗れ-緒に長州に流れたため、山口県には堤の性が多く有る様に聞いています。地元には少なくなつている。此の続きは夜も遅くなつたので次回に回して失礼します。では又、宜しく。
K,Mさん、今晩は!
そうなんです。ご指摘のとおり、難しいから調べたくなるんです。
時間のある時に、仮説で記事を上げたいと思っているのですが、
六車氏がどっからどこを経て讃岐にたどり着いたのかがわかれば面白いなと。
あまり多い苗字じゃないので、それが逆に手掛かりになるのではと想像しています。
K,Mさんの紹介してくれた事例のように、私も河野さんからお話を伺いました。
先祖は伊予の河野氏なのですが、近親は大分とのこと。
その近辺にはかわのさんが多く、呼び方を変えているそうです。
この例を聞いて、「むぐるま」と「ろくしゃ」の2つの呼び方があるのも
歴史的な何かがあったのかもと推測した次第です。
糸口はつかめないのですが、事実は1つなだけに、歴史って面白いなと思います。
mugurumaさん、今晩は、堤さんの件、やや難しく成りますが、此の地方に掛谷さんとゆう苗字が有ります。有る掛谷さんの処に堤家から養子に入られ1世紀も前でしょうか?此の時期・期間は5・6年前でしょうか?90歳を過ぎた方でしたが、しつかりした方で、お話を聞かせて戴きました。この方のお兄さん達は掛谷の性のままで、この方は神原家に養子に入りました。話は飛躍しますが、40年ほど前でしょうか、ある日、福岡県の方から堤さんが訪れ堤の地を聞かれたそうで、墓地の土を持つて帰りたいから、ついてはその地を紹介してほしいと言われたので、墓地と管理しておられる堤さんを紹介して土をもらつて帰られたそうです。その方がどうも総本家か?又はそれに準ずる人だつたと、当時、神原さんは、いつて居りました。福岡県行橋市に墓石を建立したそうです。山口県から福岡県へと移動しています。此の様に永い間には色々とありますね。ついては河野(かわの)さん言われるとおうり伊予には多いです。瀬戸内海の因島に家内の友人で、河野(こうの)さんがいます。「むぐるま」・「ろくしや」元々「ろくしや」は私の推測では無いと思います。次回に.
K,Mさん、今晩は!
長い年月で移動も多いですもんね。
昔なら、戦争があれば滅びるか離散かという感じでしょうから。
「むぐるま」「ろくしゃ」の源流は
どちらというと私も「むぐるま」だと思います。
ただ、太田亮さんの書いた「姓氏家系大辞典」だと
ろくしゃ宗旦という記述になっていました。
このあたりの真実はどっちかは気になっています。
また、想像の域を出ないのですが、「むぐるま」は
元々車持氏のいた群馬で誕生し、牛車の車を直す職人として、
今の豊中市に定住するのようになったのではないでしょうか。
群馬に「むくるま」という地名もありました。
時期は古代~平安くらいです。
そこで、車持氏の力が弱くなったことで、豪族に。
しかし、原田氏にその地盤を脅かされているところ、
細川氏の被官である寒川氏が六車郷を支配し、
その縁で取り立てられて白鳥町に移住。
この時期が鎌倉時代~室町時代くらいです。
その後、白鳥町から富田の方へ移り、
安富氏の家臣になったのかなと調べていて思いました。
各資料には断片的にしか「むぐるま」の記載がないので、
そういう資料に出会えた時はとても嬉しいです。
mugurumaさん、お早うございます。昨晩のメ-ル、最後にトラブツテ仕舞い失礼しました。教養がなく・能力も無いので、今迄に2回ほどp、cを壊しています。利き手は右利きですが、薬指と小指が少し曲っていてキ-ボ-ド当るので左手で打つ手います。本題にはいります。「むぐるま」と「ろくしや」私の家の前は道路・川を挟うんで通学路であり、かつ行の散歩道でもあります。此処に住んで30数年に成りますが、今迄に3,4回、散歩している人から表札を見て、なんと読むか?と尋ねられたことが有ります。呼び名は幾通りもあります、「ろくしや」と言ってしまえば漢字がそうなのでそれで決ってしまいますね、そんなもんだと、思つています。太田さんもそのたぐいでは無いでしょか?群馬県に「むぐるま」と、言う地名驚きました。何年か前に草津温泉、嬬恋村、方面に旅行しましたが気がつきませんでした。近くに六
合とゆう地名が地図を見たら有りました。次に安富氏の件で、苗字の富と冨違いで「冨」が11293けん「富」が2901件とありました。そのあたりの事を図書館にいつて見て見たいと思つています。mugurumaさんはその点、国立国会図書にも行けてよいですね、、、謎だらけの「船中八策」とは違い「新政府綱領八策」は龍馬自筆と見られるものが国会図書館憲政資料室(石田英吉文書)に所蔵されているそうです。では又。
K,Mさん、今晩は!
いつも大変な中、お付き会い頂き、申し訳ありません。
でも、K,Mさんの情報提供は貴重です。
「むぐるま」と「ろくしゃ」の件、
K,Mさんのご指摘のとおりですよね。
第三者には難しい読み方ですから。
私もこれまでちゃんと呼んでもらえる方が稀です。
ちなみに、群馬県は「むくるま」です。
濁りません。由緒は武田信玄時代になるそうなんですが、
私はそうではないと睨んでします。
恐らくかなり古い時代からあったのではと。
一度行きましたが、隠れ里のような感じでした。
そして、六車姓はありませんでした。
ここらへんの関わりがわかれば面白いなと個人的に思います。
龍馬書いた「新政府綱領八策」が憲政資料室にあるのですね!
憲政資料室の名前は気になっていましたが、
一度も行ったことがありませんでした。
ここ半年くらい時間がなくて、国会図書館に行けてないのですが、
時間ができたら行ってみたいと思います。
muguruma さん今晩は!群馬の「むくるま」さんは濁らないんですね。地名として「六車」漢字なんでしょうか?六車性はないとの事、其のあたりが不思議ですね。六車とは関係ないですが、坂本竜馬の妻であつた、お龍さんの墓が「京急大津」近く浄土宗信楽寺(しんぎょうじ)に有り、何故か「阪本)になつているそうですね。遅く成りました、井原市の六車家の家紋は「むつどもえ」と奥様から聞きました。では又
K,Mさん、どうもお晩です!
群馬の「むくるま」は、漢字でしたが、
六炉間とも呼んでいたとのこと。
かなりの谷筋で隠れ里っぽい感じでした。
群馬が車持氏の影響下にあり、
車の里と呼ばれていたようなので、
その関連なのかなと思っています。
六車氏がいたとしても古代以前なのではないでしょうか。
根拠もない想像です。
京急沿線って、結構歴史にまつわるところが多いので、
今度行ってみますね。金沢文庫も興味があるのですが、
まだ行ったことないんです。
そして、井原市の六車さんの調査の件、ありがとうございます!
「むつどもえ」という家紋を検索したのですが、出て来ませんでした。
勝手に考察すると、「巴が六つ」か「車紋に三つ巴」のなのでしょうか。
それにしても、苗字にちなんで「六」を用いるあたりは流石ですね。
こういう事実は調べようがないので、K,Mさんにはとても感謝しています。
結構色々な六車氏も色々な家紋がありそうなので、
そのうち記事に出来ればと考えています。
muguruma さん、今日は群馬の件有難うございます。明日、図書館に行く予定にしているので、家紋の勉強をと思つています。京急に追浜が有りますね、此処に日産自動車(以前は日本飛行機)が有りますね、此処に熊本の六車さん転職して行ったのではと勝手に想像しています。もしそうだとすると追浜方面の電話帳に掲載されているかもと?思いよります。最後に成りましたが、muguruma さんは色々と勉強されていますね。感服します。では又
K,Mさん、今晩は!
色々教えて頂き、ありがとうございます。
勉強しているなんて、とんでもないです。
まだまだ、ひよっこですから。
家紋の勉強、いいですね。
最近色々教えて頂いているので、情報の整理も含めて、
調べにいきたいと思っているのですが、やれていないのが現状です。
皆さんからの情報では、六車の家紋も結構色々ありそうなので、
そのあたりも調べることができると面白いなと思っています。
muguruma さん、昨夜コ-ナの違う所えコメントしてしまい失礼しました。それは、六車氏の変遷についての推測コ-ナにコメントしたこ事です。家紋については支流が多いほど様々で当然の成り行きかと思つたりします。昨日・図書館に行きましたが、試験シ-ズンか?満員で座る椅子も無いほどでした。貸出し出来ない図書で視たいのがあつたのですが、貸出し出来るのを借りてきました。では又
K,Mさん、コメントはどこにして頂いても大丈夫ですよ!
家紋の件、代毎に簡単に変えれちゃうから、成り行きという言葉がシックリ来ますね。
代々受け継がれている方が、奇跡に近いのかもしれません。
色々教えて頂き、私も勉強になります!
mugurumaさん、昨日、図書館に久しぶり行きました。気になつていた図書を閲覧出来ました。やっと解りました、群馬県甘楽郡南牧村(なんぼくむら)六車、図書では、「むぐるま」となつて居ました。mugurumaさんのおつしゃるp・cでは「むくるま」ですね、南牧村の六車は東西南北kanari,hiroi,hanini,arimasune.p.c,toraburu,hiruni,mata
mugurumaさん、昨日は失礼いたしました。キ-打ち込み中、漢字の変換が出来なくなりました。昨日にひきつずきます、甘楽郡六車は大字になつていて広範囲にあり面積にしたらとてつもなく広いのにきずきました。何故か?山岳地帯だからでしょうね、mugurumaさんが行った折に、その様な感じのコメントがあつたのを思いだしました。ntt さんに問い合わせたんですが、六車の企業も苗字の六車も無いとの事でした。せめて農林業が盛んであれば何かヒントに成るものがあつたかも知れませんがmugurumaさんは車持氏の事をコメントしていました。少しそれますが、群馬県はキャベツの生産、日本-で海抜700m 以上は害虫がつかないそうで、きれいな、キャベツです。それにかんがみ思うには材木に害虫がつかなく立派な堅い材木が育つのではないのでしょうか?其れにより立派な車輪が出来、発展した、-時期があつたと、思ったりします。飛躍でしょうか、其れにしても群馬の六車は不思議ですね、、、では又
K,Mさん、こんばんは!
K,Mさんの林業と車輪の仮説、確かにその関連性があるかもしれません。
実際、「むくるま」を訪れた時に、田畑もそれほど作れなさそうな土地で、
食べるとしたら林業くらいかなと思いました。
木工の技術に長けた職人衆として、車持氏の影響下にあった土地に派遣されたのも頷けます。
ひょっとすると、全国各地に「六車」氏が派遣され、車持氏が衰退した時に、たまたま力をもった一族が摂津だったのかもしれません。
もう事実にはなかなかたどり着けないのかもしれませんが、大昔に想いを馳せるのも楽しいですね。
mugurumaさん、今日は、昔の事を色々探索するのは勉強になつておつしゃるとうり楽しいものです。処で群馬から摂津市への移動の件、どうゆう経過か解れば教えてください。*難読・異読・地名辞典の著者・楠原佑介さんに依れば群馬の六車(むぐるま)はこの読み方です。地図で検索すると前にもコメントした通り地域範囲が広いのが解ります。では又
K,Mさん、こんばんは!
群馬から摂津への移動は、全くの仮説です。
事実を裏付けるものには辿りついていません。
ただ、色々と符号する事実があったもので、そうではないかと推測しています。
1.車持氏にちなんだ苗字のようであること(参考はhttps://sixwheel.net/wp/blog/2012/08/17/title-58/)
2.車持氏が支配した地域が今の高崎付近で、その一帯を「車の里」と呼ばれていたこと(参考はhttps://sixwheel.net/wp/blog/2012/07/15/title-49/)
3.車持氏と関係のある地域が全国にあり、そこに摂津が含まれていること(参考はhttps://sixwheel.net/wp/blog/2012/08/26/title-42/)
4.大川町史によると六車宗湛の先祖は、関東の豪族であると言ってること(参考はhttps://sixwheel.net/wp/blog/2012/03/24/title-24/)
5.車持氏の摂津遷移(参考はhttp://8906.teacup.com/toraijin/bbs/1495)
車持氏と六車の関係がもう少し判るものがあればいいのですが、今の所資料としては発見できていません。
また、「むくるま」ではなく「むぐるま」と呼ぶ可能性があるのですね。
尚更、近づいている気がします。
mugurumaさん、色々と教えて戴き有難うございます。5、については途轍もなく博識な方ですね。私の微小な能力ではついて行けません、でも難しくても知った限り読まなくてはとおもつています。来年まで持ち越しに成りますが。2については又トラブルになつて居るので家内の起床待ちにしています。懸案事項が多く、来年に持ち越しばかりで、mugurumaさんには申しわけなく思つています。
私の祖父(1978年没)は香川県大川郡(現さぬき市)富田から養子としておなじ郡内(現東かがわ市)町田(丹生)の池田家に婿養子で入りました。以下私が幼いころの聞きかじりです。
祖父は実家を六車「本家」と言っていました。雨滝山の南麓で六車城址からもごく近い場所です。この「本家」という表現が富田に所在する六車一族の総本家を指すかどうかわかりませんが、祖父が幼い時おばあさんから聞いた話として、昔殿様(江戸時代の髙松藩?)が巡回に来られた時、二本差しの侍たちが屋敷に居座って恐ろしかったという言い伝えを聞いたことがあります。そのおばあさんは安富家出身と聞いたかすかな記憶があるので、その屋敷が六車家をさすものか安富家のものか定かではありませんが、いずれにしても、その当時(江戸後期?)藩の役人が巡察にやってきたときの接待饗応ができる家柄だったのでしょう。ちなみに我が池田家はくだんの祖父のさらに2代前に同じ富田の六車「本家」から嫁を迎えており、その縁で祖父を養子に迎えたと伝え聞いています。明治初期池田家もそれなりの財力があったらしく、六車家ともおなじ宗旨の「真言宗」で法事など行き来しやすかったと聞いています。
池田さん、ご連絡ありがとうございます!
以前、広島の六車さんより、
六車の総本家がいくつかあると教えて頂いたので、
そちらの出自かもしれませんね。
そして、殿様の接待とは!安富氏だとしても、
平民になった所にわざわざ訪れるとはスゴイなと思います。
また、宗旨が「真言宗」というのも貴重な情報です。
私の家では浄土真宗に変わってしまい、祖父が北海道に渡った時に、
家紋同様変えてしまったのかもと思ってしまいました。
余談ですが、祖父の妹が池田家に嫁いだという話を聞ききました。
東かがわ市では結構多い苗字なのでしょうか?
わたしは香川県大川郡津田町出のものですが、同郡津田町史には、長宗我部氏の讃岐に侵攻のおり小豆島に逃れた安富氏にかわり、雨滝城を献身的に守備した六車宗旦さまの記述があります。
結果的には雨滝城は落城するも、六車(むぐるま)宗旦さまを慕い、当地には六車(むぐるま)姓が多いとのこと。
六車姓でルーツ探しをされたいみなさま、歴史に明らかなご先祖さまの記録はさぬき市にあるとおもわれます。ぜひさぬき市においでください。
ちなみに私は讃岐の国の国造、神櫛大王の末孫の末、戦国時代は安富氏と争乱ののち大内郡他を割譲した氏族の末のものですが……………。
六車姓の仲良し同級生がいく人かいたので、六車姓は方は大好きです。
P.S
高松市図書館のHPで高松藩士由緒録というものがございます。
讃岐の国の名族のほとんどは豊臣秀吉の島津征伐の際の戸次川の戦いで嫡流と言われる家は滅び土着した傍系の子孫が経済的な貢献や筋目のものとして藩士にとりたててられた経緯が載っています。
六さん、いいや寒川さんですね!
ご連絡ありがとうございます!
苗字は東讃ですが、実情は全くわからないので、
嫡流が滅びたという下り、知らないことで驚きました。
その戦いで長町氏から養子を迎えた六車長門守朝政が亡くなっていますので、
六車宗湛としては朝政が嫡流という思いが強かったのかもしれません。
長町氏も長男を六車氏に養子として送り出しているので
その心意気に応えたものかもと思いました。
ひとつ質問がありまして、宗湛を慕って六車姓を名乗ったと教えて頂きましたが、
ひょっとしたら、全く血縁の無い方も六車姓を名乗った可能性があるということでしょうか?
もし、ご存知なら教えて頂ければ幸いです。
どうぞ、よろしくお願いいたします。
初めまして。六車裕之です。珍しい名前で戸惑っていましたが六車って名前は沢山居るって知って安心しました。
六車さん、初めまして!私の周りにも六車性は全然いませんでしたが、実は結構いらっしゃるんですよね。調べてみて良かったです。