事実
京都へ
2012/08/17
「応仁の乱ゆかりの地を訪ねて」に沿って、応仁の乱と関係のある場所を歩きました。
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足利将軍室町第跡
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御霊神社(上御霊神社)
祭神として崇道天皇(早良親王)、吉備真備、橘逸勢をはじめ、13柱の神霊を祀る。この地には、はじめ付近住民の氏寺として創建された上出雲寺があったが、平安遷都(794年)に際し、桓武天皇の勅願により王城守護の神として、奈良時代・平安時代初期に不運のうちに亡くなった8柱の神霊が祀られたといわれ、その後、明治天皇の御願により祭神5社が増祀され、現在に至っている。
平安時代には、天変地異や疫病流行は怨霊のたたりであるとする御霊信仰が盛んで、怨霊をなだめるための御霊会が度々行われ、疫病除けの霊社として名を広めた。朝廷から庶民に至るまで広く信仰を集めたが、特に御所の守護神として皇室の崇敬が厚く、神輿や牛車等、皇室からの寄付品を多数蔵している。本殿は、1733年(享保18年)に下賜された賢所御殿を復元したものといわれている。
また、境内は「御霊の杜」と呼ばれ、1467年(応仁元年)正月18日に畠山政長と義就の合戦が行われた、応仁の乱の発端の土地となった場所としても知られている。
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応仁の乱勃発の地
1467年(文正2年)正月18日朝、この付近すなわち御霊の森(上御霊神社境内)での合戦から「応仁の乱」は始まった。前日の17日深夜、畠山政長は自ら屋敷を焼いて、一族郎党や奈良筒井氏の成身院光宣らと兵約2000を率いてここに布陣した。
翌18日早朝、畠山政長と畠山家の家督を激しく争っていた畠山義就が兵3000余で攻撃をしかけ、18日は終日激しい戦いが続いた。義就方には朝倉孝景、ついで山名持豊(宗全)の命を受けた山名政豊が加勢した。しかし、政長方には頼みの細川勝元がこの時点ではまだ動かず、まる一日の合戦の結果、政長方は持ちこたえれず退却した。これが「応仁の乱」の最初の合戦である。
その年の3月、年号は「文正」から「応仁」と改まり、細川氏・山名氏の両陣営はそれぞれに味方を集めて戦時体制をかため、5月から上京を中心に、将軍足利義政の後継者争いも絡み合う、東西両軍の全面的な戦に入った。この戦は京の都を疲弊させ、室町幕府の権威を失墜させたが、厭戦の風潮の中、細川・山名両氏の間に和睦が成立し、1477年(文明7年)、11年間に渡る大乱はようやく収束をみた。なお、宗全の墓は南禅寺の真乗院にある。
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道々橋の礎石
この石は、応仁の乱(1467~1477)の戦場として歴史に名をとどめる「道々橋」の礎石の一つである。道々橋は当地を南北に流れていた小川に架かっていた橋(長さ約7.4m、幅約4m)で、橋名は応仁の乱以前の風景を描いたと言われる「中昔京師地図」に当地が「百々ノ辻」と記載されていることに由来すると伝えられている。
応仁の乱の際、細川勝元(東軍)と山名宗全(西軍)の両軍が、橋を隔てて幾度にわたり合戦を行い、この小さな橋に戦国乱世の歴史のひとこまが刻まれることになった。古来板橋であったが、近世になって石橋に架け替えられ、1963年(昭和38年)に小川が埋め立てられた際、橋も解体されたが、地域の方々の御尽力により、橋財は一時、室町小学校で保管された。
その後、橋材の大部分は洛西ニュータウンに移され、竹林公園内に復元されたが、橋脚を支える4基の礎石のうち1基は室町小学校の校庭に、1基は百々橋をしのび貴重な遺構として当地に遺された。
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山名宗全邸宅跡
山名宗全は1404年(応永11年)、但馬国(現在の兵庫県北部)出石に生まれ、名を豊持といい、後に出家して宗全と称したが、赤ら顔であったので「赤入道」とも呼ばれた。但馬をはじめ12箇国の守護職を兼ね、当時全国は60余州あったことから「六分の一殿」とも呼ばれた。
子供がなかった室町幕府8代将軍・足利義政は、弟・義視を後嗣にしようとしたが、その後、義政の夫人・日野富子に義尚が生まれたため、将軍職をめぐる後継者争いが起こり、守護大名のお家騒動も絡み合い「応仁の乱」へと発展した。義尚を擁する宗全は、この邸宅を本陣として、室町今出川の「花の御所(足利家の住宅・室町幕府)」に陣を置く義視方の細川勝元と東西に分かれて11年間に及ぶ戦いを繰り広げた。このため京の町の大半は焦土と化した。この情景を詠んだ歌に次のようなものがある。
なれや知る 都は野辺の 夕雲雀
あがるを見ても 落つる涙は
この地にあった山名家代々の邸宅も焼失し、宗全は1473年(文明5年)、陣中で没した。このあたり一帯を「西陣」と呼ぶのは、山名宗全率いる西軍が陣を置いたことによる。なお、宗全の墓は南禅寺の真乗院にある。
安富紀四郎もここに討ち入って亡くなっているようです。
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大報恩寺
瑞応山と号する真言宗智山派の寺院で千本釈迦堂の名で知られている。1221年(承久3年)藤原秀衡の孫、義空上人が、猫間中納言光隆の家卒、岸高より寄進を受けたこの地に、小堂を建て一仏十弟子像を安置したのが当時の起こりといわれている。当初、倶舎、天台、真言の3宗の霊場として、堂塔伽藍も整い、壮麗を極めたが、応仁の乱をはじめ度々の火災のため堂宇を消失してしまった。
現在唯一残る本堂(釈迦堂)は、本市に現存する最古の仏堂遺構で、国宝に指定されている堂内には、行快作の本尊釈迦如来坐像を安置または霊宝殿内には快慶作の十大弟子像をはじめ、六観音菩薩像、千手観音立像、銅像釈迦誕生仏立像など数多くの文化財を所有している。
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北野経王堂願成就堂
このお堂は、足利3代将軍義満の時、1391年(明徳2年)11ヶ国の大領主陸奥大守山名氏清が将軍家に叛いて挙兵した「明徳の乱」に於いて逆に義満により「内野の原」にて討滅されてしまったその翌年に将軍義満は叛いたとは言え氏清とその一族のかつての功労武勲を重んじ、あるいは戦に倒れた敵、味方の兵士たちの追福の為、1100人の僧侶を集めて供養し、引続き1401年(応永8年)に北野社の社頭に東山三十三間堂の倍半という大堂を建立し「北野経王堂願成就寺」と名付け毎年10月、10日間に亘って万部経部会並びに経典書写などの仏事を行い供養していた。この行事は「北野経会」と呼ばれて京洛最大の行事となり、代々の幕府により引き継がれていた。
尚、応永期には大部の経典「北野社一切経5500余巻」(重要文化財)が書写奉納された。観世謡曲「輪蔵」はこの一切経の「輪蔵」を謡ったものである。この大堂も江戸期に入り荒廃甚だしく遂に1671年(寛文11年)に解体縮小されて小堂となり、仏像及び一切経典5000余巻、義満筆による「経王堂額」什宝遺品の一部が本寺である当山に移され現在霊宝殿に保存されています。
又、解体された遺構の木材は当山に運ばれて縮小復元されたのがこのお堂であります。お堂の右前には山名清氏の武勲を讃え碑が建てられています。
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