事実
2012/05/04
富田神社の源流ということで、訪ねました。歴史が古いのにとにかく綺麗で、鎌倉時代のものもなさそうです。また、近くに香川という駅があり、香川県の名前の元らしいです。
参考:寒川神社
2013/05/02
富田中の六車氏の菩提寺とのこと。過去帳もあるということでした。六車宗湛寄贈の銅鉢について確認するのをすっかり忘れてい
コメント: (0)
2013/05/01
久しぶりに富田八幡宮へ向かいました。心なしか新しくなったような気がしました。 2012/04/21 追記 富田神社の
コメント: (4)
2012/05/03
安富氏の先祖である紀重満が下総国埴生郡地頭ということで、何か手がかりがあるのではないかと思い、訪れました。よくよく見
2012/08/15
六車郷時代からあると思われる原田神社。土地も広く、建物も多数あります。建物自体は800年前のものではありません。その
2012/07/15
車持氏はこの一帯の支配者で、車の里といわれていたようです。群馬もくるまから由来しているとのこと。近くには車川なんてい
コメント: (8)
2012/01/23
ネットが普及する前は、苗字の由来という本をよく読みました。しかし、あまり「六車」姓はでてきません。よっぽどローカルな
コメント: (14)
2013/05/09
「六車」「ルーツ」で検索していると、六車(ろくしゃ)奈々さんが自分のルーツを探ったという記事を発見。なんと!香川県大
2012/06/23
梅雨の隙間に、夢のお告げを信じて、宮代町に行きました。夢の中では、「六車」の関東での領地は、「利根川沿い」「身代わり
2013/04/30
現地に行って麓の方にお話を伺うと、勘違いしてることが発覚しました。それは、鳥居がある天神宮を城跡だと思っていたのです
2013/01/11
住吉大社に行きました。灯篭がデカイです。目を引きました。 参考:住吉大社
mugurumaさん、今日は讃岐寒川神社、知りませんでした。 立派な神社ですね、寒川駅に一度だけ行った事が有りますが駅から近いのでしょうか?相模国一之宮国幣中社(神奈川県高座郡寒川町)・千葉県千葉市中央区にある寒川神社、関東の二社は寒川(サムカワ)と読み、讃岐のは寒川(サンカワ)ですね、源流は一緒でしょうが地方に渡って違ったかも?古くわ寒川神と言われ近世には八幡神、或いは菊理媛・稲田姫尊etcと称され一定ではないとあります。拝殿はいずれも唐屋根が有りますね、このあたりは一緒です。甲・乙付けがたい立派な神社に感服です。では又
K,Mさん、こんばんは! 寒川神社ですが、寒川駅からではなく、宮山駅から歩きました。 徒歩で10分~15分で、結構歩いた印象です。
讃岐の寒川氏も、六車氏となんらかの関係があると推測しているので、 寒川氏の資料があまり見つからず、どうしたものかと思っています。
讃岐寒川氏の末孫で百町歩の田畑をもち高松藩公の巡視の折には休憩処となっていたとの言い伝えをもつものと苗字を同じくするものです。実家は伝説ばかりの貧乏人ですが(笑) 家紋は三階松と笹竜胆、宗旨は真言宗。
さて、 讃岐の国の寒川氏ですが、旧香川県大川郡寒川町史他には地域の名族である寒川氏についての筋目について多くの記述があります。 また南海治乱記他などにはその出自も載っています。田舎の名族故に幾つかの説はありますが….. 。 そのうちで最も有力な説は、 讃岐の国の寒川氏は、景行天皇の皇子、讃岐の国の国造神櫛王の末孫で、讃岐の国の大内、寒川郡の郡司として地域では有名な氏族で、同流には十河氏等があり東讃岐では有力でした。 歴史が下り南北朝戦国時代には、細川氏の被官の安富氏に屈し領地を割譲し、豊臣秀吉の島津征伐の際には戸次川の戦いでは、讃岐の諸名族と同じく嫡流ははぼ絶え、国元での家勢は下ってしまいました。
寒川氏と六車氏の関わりですが、寒川氏が讃岐古来の土着の有力氏族にたいし、鎌倉幕府の成立に伴い細川氏の被官として讃岐に入国した安富氏…………大内郡の割譲を巡る寒川氏との対立や、安富氏の家臣である六車氏を、土着の有力氏族の寒川氏が対等な関係で関わりを持ったか否かは如何なものかと推察いたしますが、いかがでしょう。
ちなみに高松藩士由緒録(高松市図書館HPで閲覧できます)などでは、中世の讃岐の国に見られる有力な氏族の苗字はほとんど見当たりません。(東讃岐で特定すれば寒川、安富、六車氏等。) 地付きで、召し抱えられたとある筋目のものは、有力氏族の傍系のものが経済的な貢献の結果なのでしょうか。
寒川さんとお呼びします! ありがとうございます!
私も実は寒川氏と六車氏との関係を追っていまして、 寒川一族という本や寒川氏が細川氏の代官としての畿内での活動を 調べています。
六車姓は宗湛の時に初めて讃岐に現れる名前で元々畿内の名前だったはずという推測の基 調べているのですが、大川町史によれば、安富氏から分かれた六車氏の娘が寒川氏の嫁になったりと 両家の関係は安富氏と寒川氏の戦いがあるまで良好だったのかもと想像していました。
安富氏から分かれたという仮説を立てていますが、もし、そうではないということがであれば、 寒川氏が現在の豊中市である六車郷を細川氏から給地としてあてがわれていましたので、 寒川氏との関係で四国に渡る理由があったのかもしれないという仮説も立てられます。
そして、以前白鳥にいた六車氏が大川に移った時に、六本骨源氏車の家紋を用いるようになったと聞き、 その頃は白鳥も寒川氏の影響下にありましたので、どういういきさつなんだろうと考え張り巡らせていました。
豊中市の教育委員会の方のお話ですと、その頃、土地の請負人として、安富氏、寒川氏、両人出てきます。 私の考えでは、畿内での影響下が無くなった、六車郷の人間が、同族を頼りに讃岐に避難し、 まわりとの差別化から出身の六車郷から名前をとり六車と名乗ったのではないでしょうか?
当時、畿内への往来が盛んだった白鳥の港に畿内より引き上げてきて、 なんらかの理由で出身地を苗字とし、大川に移り住んだという考え方です。
江戸時代以降は、ご指摘のように地域の名族として、支配する側も一目置いていたのかなと 池田さんの記述からそう想像していました。その辺りの歴史的資料が出てくれば興奮ものだなと思っています。
大川町に津田町史、水主村史や寒川町史なんか大川郡の町史には寒川氏の末孫の國方ってたくさんでてきますね。 景行天王の皇子、神櫛王の末孫、寒川氏の末。
結局、食べ物そんなに不自由しなかった地付の人間はあくせくせず田舎でボチボチつつましく現代まできたんでしょうね。
ちなみにあたしも余ります苦労せず人生ボチボチいってます。國方氏です。
ってすみません、今は転勤で福岡きてます。九州って讃岐 人には相性善くないですよね。 菅原道真さま、島津にやられた戸次川。 でもあたしはがんばるぞうー
さらに追加すみません。百町歩って、寒川常隣さま、、、神前出羽正元さまですね。うちもその子孫って昔話ありますよ。なぜか家紋は三階松じゃなく笹竜胆、けど宗派は真言宗ですけどね。 同級生に大川町の國方君がいてて彼の家の仏壇は立派。彼んとこは本流かも。
ちなみに 大阪勤務の何年かまえに奈良の浄瑠璃寺にあった仏舍利がうちの仏さまにお祀りしてるの同じ仏舍利があったんですけど、あああたしは讃岐のええとこの子って希望持ちました。 ちなみに高野山で讃岐の永代さまつってもらうお寺さまは世界遺産の金剛三昧院さま。
さらにすみません。 六車さんのページだっんですよね。 安富氏が小豆島に逃れたあとも宗湛さまは雨滝城の白米伝説を残して城を守ったって、だから大川郡には宗湛さまを慕って六車姓が多いって、話あります。 ちなみにこれもまた同級生なんですが、六車さんって美人さんが津田町鶴羽にいました。美人さんぎ多いのかなぁ‼
まさちちさん、色々な情報をありがとうございます! 寒川氏から國方氏が広がったんですね。 やはり名族の系統は土豪といった形で綿々とつながっているんですなぁ。
仏壇によっても立派などがあるのもさすが、歴史のあるところは違うなと思いました。 過去帳とかもスゴいことになっているのが想像できます。
また、六車さんの話。 慕っての六車性が多いとは発見でした。 私の知っている限り、宗湛系六車氏と赤穂系六車氏がいるのですが、 それ意外にもいる可能性がありますね。
そして、美人さんが多いんですね! 確かに、タレントのろくしゃさんも美人ですしね。 同じ苗字としても嬉しい限りです。
安富氏関係を探していてたどり着きました。私の母方が寒川で昼寝城主の子孫を名乗っているようです。また私の母の同級生に安富さんという方がいらっしゃいまして、「うちの家の方が上だ」とか言ってたとかなんとか。
私の実家のあたりに六車という珍しい姓があることは聞いたことがありました。 六車姓につきましては、近くに六車城があって、そこに拠っていた一族だという認識です。
私は岩沢と言いますが、これが不思議なことに香川県内の一つの村に集中していまして、関西には少ない苗字です。他には兵庫県の姫路のあたりに集中してます。 長尾町史を見て見ましても、いきなり江戸時代の庄屋として出てきましてそれ以前の記録が見当たりません。関東には多く、千葉、神奈川あたりにいるそうです。 そこで、関東から入部した安富氏との関わりが無いか調べようとしているところ、ここに行きあたりました。ルーツにミステリーがあるのは楽しいですね。
あと、このページの最初にある神奈川県の香川につきましては、私が調べた範囲では香川県とは無関係のようです。讃岐には元から香川郡という地名があり、細川氏とともに相模発祥の香川氏がやってきましたので、単なる偶然のようです。
相模一宮寒川神社には私も参ったことがあります。一説には寒川神社から讃岐寒川郡へ勧進され、それが地名となったのではないかというものもあるそうです。
また、寒川氏と関わりのあるかたのコメントも読ませていただきましたが、私の母方の寒川も真言宗です。家紋は抱き茗荷ですが。寒川氏流の宗旨は真言宗が主流なんでしょうか。
ひろさん、こんばんは。 そうですね。ルーツを解き明かしていくのも楽しいですね!
香川は香川氏がやってくる前からあったんですね! 香川氏もその縁に感動したかもしれませんね。
やはり、歴史のあるところは、名字で上か下とかあるんですなぁ。 北海道だと名字でどうこうということは無いので、それはそれで新鮮です。 六車も岩沢さんと一緒で、元は一部に集中していたはずなので、 寒川氏と岩沢氏の関係と安富氏と六車氏の関係と似ているのかもしれません。 そうそう、岩沢さんと言えば、私の知り合いは福島出身の岩澤さんでした。 こちらは関東の岩沢さんと関係があるのかな。
全然関係ないのですが、wikiで岩澤靖さんという方を見つけ、 まさに岩沢さんの一族と近しい感じかもと思いました。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A9%E6%BE%A4%E9%9D%96
北海道はそこそこ香川から移り住んだ人々が多いそうで、 坂東さんや植田さん、植松さんも見かけます。
寒川氏の真言宗については、私もよくわかりませんが、 香川で多いのは浄土宗らしいので、代々受け継がれてきた宗派のような気がします。
muguruma様。お返事ありがとうございます。 岩澤靖ですが、確証はないものの私と同族と思われます。この人物の出身の辺りにも大きな地所を持っていた岩沢さんが居りまして、その一族ではないかと思います。元は別の苗字だったのが、私の一族の岩沢さんと養子が行ったり来たりしている間に名字が岩沢になったのだと、その辺りに詳しい人に聞いたことがあります。ただ、私の近い親戚ではありません。 面白いのは札幌大学の理事長の二代が岩澤誠さんなのですが、この人は千葉県出身とのことで、別の岩澤さんみたいなんですね。 北海道は日本中のいろんなところから移住した方が多いので、そういうところと姉妹都市関係を結んでいるところが多いみたいですね。さぬき市も北海道内の三つの市町とそういう縁で姉妹都市となっているようです。それと、さぬき市出身の人は先ほどの岩澤靖だけでなく、日本ハムファイターズの関係者が居たりして北海道に縁がある人が多いみたいです。 今では名字で上だ下だというのは冗談の類と思いますが、それでも戦前辺りまでは家柄はかなり重視されていたみたいです。そのあたりのちょっとドロドロした話はたまに聞きます。
やはり歴史のあるところは色々な情報を持っていて、うらやましい! でもドロドロしたところはあんまり関わりたくないかもです。
一年ぶりになります。 色々調べまして、自分の岩沢についてはかなりわかってきました。 Wikipediaにある岩澤靖氏についても関係がはっきりしました。が、関係が複雑で一言では言えません。 私の先祖の養子になった人が別の家を継いだのが靖氏の先祖とのことです。(わかりますか?)
話変わりまして、私の本家が並んでる(変な言い方ですが本家筋の家が何軒かあるのです)ところの間に、六車さんがいらっしゃるらしいです。 また、その近辺では多田さんが多いとも聞きます。こちらは清和源氏で、源頼朝の大本の先祖の本拠地から続いている家のようですが、この方たちも細川氏の入部とともに安富氏配下としてやってきた一族のようです。やはり摂津の一族ですので六車さんと一緒にやってきたのかもしれません。
さらに話変わりまして、國方様ですが、長尾町史には寒川の一族ではなく、菅原家の流れであると系図付きで説明されています。この辺りは突き合せないとよくわからないかもしれません。うちの実家のすぐ近所にも國方さんがいらっしゃいます。
ひろさん、こんばんは! 独自に調査を続けられているのですね! 素晴らしい!
岩澤靖氏の件、出たり入ったりという感じですね。 名前は関係あるけど、血のつながりはないという風に推測しています。
本家筋の話、長い歴史が積み重なると筋ができるということですか。 いやー、スゴい!北海道だと本家とは言いますが、筋まで生まれてないかもです。
多田氏は多田源氏なんですね。 ちょっとうる覚えなんですが、安富氏の四臣の一人が多田氏だった記憶があります。 いや瀧井氏だったかな。ちょっと忘れてしまいました。
六車氏もどこからやってきたのかは謎ですが、 多田氏が摂津なら六車氏も摂津の一族なのかもしれません。
六車氏は安富氏から別れた説もあったり、 六車という地名から名前をとった誰かの可能性もあるので、 よくわかっていないんです。
六車庄という土地を香西氏や安富氏が治めていたようなので、 そのあたりの関係者なのかなとも推測しています。
名前
メッセージ
次回のコメントで使用するためブラウザーに自分の名前、メールアドレス、サイトを保存する。
Δ
« 下総国埴生郡
「六車」比較年表 »
mugurumaさん、今日は讃岐寒川神社、知りませんでした。
立派な神社ですね、寒川駅に一度だけ行った事が有りますが駅から近いのでしょうか?相模国一之宮国幣中社(神奈川県高座郡寒川町)・千葉県千葉市中央区にある寒川神社、関東の二社は寒川(サムカワ)と読み、讃岐のは寒川(サンカワ)ですね、源流は一緒でしょうが地方に渡って違ったかも?古くわ寒川神と言われ近世には八幡神、或いは菊理媛・稲田姫尊etcと称され一定ではないとあります。拝殿はいずれも唐屋根が有りますね、このあたりは一緒です。甲・乙付けがたい立派な神社に感服です。では又
K,Mさん、こんばんは!
寒川神社ですが、寒川駅からではなく、宮山駅から歩きました。
徒歩で10分~15分で、結構歩いた印象です。
讃岐の寒川氏も、六車氏となんらかの関係があると推測しているので、
寒川氏の資料があまり見つからず、どうしたものかと思っています。
讃岐寒川氏の末孫で百町歩の田畑をもち高松藩公の巡視の折には休憩処となっていたとの言い伝えをもつものと苗字を同じくするものです。実家は伝説ばかりの貧乏人ですが(笑)
家紋は三階松と笹竜胆、宗旨は真言宗。
さて、
讃岐の国の寒川氏ですが、旧香川県大川郡寒川町史他には地域の名族である寒川氏についての筋目について多くの記述があります。
また南海治乱記他などにはその出自も載っています。田舎の名族故に幾つかの説はありますが….. 。
そのうちで最も有力な説は、
讃岐の国の寒川氏は、景行天皇の皇子、讃岐の国の国造神櫛王の末孫で、讃岐の国の大内、寒川郡の郡司として地域では有名な氏族で、同流には十河氏等があり東讃岐では有力でした。
歴史が下り南北朝戦国時代には、細川氏の被官の安富氏に屈し領地を割譲し、豊臣秀吉の島津征伐の際には戸次川の戦いでは、讃岐の諸名族と同じく嫡流ははぼ絶え、国元での家勢は下ってしまいました。
寒川氏と六車氏の関わりですが、寒川氏が讃岐古来の土着の有力氏族にたいし、鎌倉幕府の成立に伴い細川氏の被官として讃岐に入国した安富氏…………大内郡の割譲を巡る寒川氏との対立や、安富氏の家臣である六車氏を、土着の有力氏族の寒川氏が対等な関係で関わりを持ったか否かは如何なものかと推察いたしますが、いかがでしょう。
ちなみに高松藩士由緒録(高松市図書館HPで閲覧できます)などでは、中世の讃岐の国に見られる有力な氏族の苗字はほとんど見当たりません。(東讃岐で特定すれば寒川、安富、六車氏等。)
地付きで、召し抱えられたとある筋目のものは、有力氏族の傍系のものが経済的な貢献の結果なのでしょうか。
寒川さんとお呼びします!
ありがとうございます!
私も実は寒川氏と六車氏との関係を追っていまして、
寒川一族という本や寒川氏が細川氏の代官としての畿内での活動を
調べています。
六車姓は宗湛の時に初めて讃岐に現れる名前で元々畿内の名前だったはずという推測の基
調べているのですが、大川町史によれば、安富氏から分かれた六車氏の娘が寒川氏の嫁になったりと
両家の関係は安富氏と寒川氏の戦いがあるまで良好だったのかもと想像していました。
安富氏から分かれたという仮説を立てていますが、もし、そうではないということがであれば、
寒川氏が現在の豊中市である六車郷を細川氏から給地としてあてがわれていましたので、
寒川氏との関係で四国に渡る理由があったのかもしれないという仮説も立てられます。
そして、以前白鳥にいた六車氏が大川に移った時に、六本骨源氏車の家紋を用いるようになったと聞き、
その頃は白鳥も寒川氏の影響下にありましたので、どういういきさつなんだろうと考え張り巡らせていました。
豊中市の教育委員会の方のお話ですと、その頃、土地の請負人として、安富氏、寒川氏、両人出てきます。
私の考えでは、畿内での影響下が無くなった、六車郷の人間が、同族を頼りに讃岐に避難し、
まわりとの差別化から出身の六車郷から名前をとり六車と名乗ったのではないでしょうか?
当時、畿内への往来が盛んだった白鳥の港に畿内より引き上げてきて、
なんらかの理由で出身地を苗字とし、大川に移り住んだという考え方です。
江戸時代以降は、ご指摘のように地域の名族として、支配する側も一目置いていたのかなと
池田さんの記述からそう想像していました。その辺りの歴史的資料が出てくれば興奮ものだなと思っています。
大川町に津田町史、水主村史や寒川町史なんか大川郡の町史には寒川氏の末孫の國方ってたくさんでてきますね。
景行天王の皇子、神櫛王の末孫、寒川氏の末。
結局、食べ物そんなに不自由しなかった地付の人間はあくせくせず田舎でボチボチつつましく現代まできたんでしょうね。
ちなみにあたしも余ります苦労せず人生ボチボチいってます。國方氏です。
ってすみません、今は転勤で福岡きてます。九州って讃岐
人には相性善くないですよね。
菅原道真さま、島津にやられた戸次川。
でもあたしはがんばるぞうー
さらに追加すみません。百町歩って、寒川常隣さま、、、神前出羽正元さまですね。うちもその子孫って昔話ありますよ。なぜか家紋は三階松じゃなく笹竜胆、けど宗派は真言宗ですけどね。
同級生に大川町の國方君がいてて彼の家の仏壇は立派。彼んとこは本流かも。
ちなみに
大阪勤務の何年かまえに奈良の浄瑠璃寺にあった仏舍利がうちの仏さまにお祀りしてるの同じ仏舍利があったんですけど、あああたしは讃岐のええとこの子って希望持ちました。
ちなみに高野山で讃岐の永代さまつってもらうお寺さまは世界遺産の金剛三昧院さま。
さらにすみません。
六車さんのページだっんですよね。
安富氏が小豆島に逃れたあとも宗湛さまは雨滝城の白米伝説を残して城を守ったって、だから大川郡には宗湛さまを慕って六車姓が多いって、話あります。
ちなみにこれもまた同級生なんですが、六車さんって美人さんが津田町鶴羽にいました。美人さんぎ多いのかなぁ‼
まさちちさん、色々な情報をありがとうございます!
寒川氏から國方氏が広がったんですね。
やはり名族の系統は土豪といった形で綿々とつながっているんですなぁ。
仏壇によっても立派などがあるのもさすが、歴史のあるところは違うなと思いました。
過去帳とかもスゴいことになっているのが想像できます。
また、六車さんの話。
慕っての六車性が多いとは発見でした。
私の知っている限り、宗湛系六車氏と赤穂系六車氏がいるのですが、
それ意外にもいる可能性がありますね。
そして、美人さんが多いんですね!
確かに、タレントのろくしゃさんも美人ですしね。
同じ苗字としても嬉しい限りです。
安富氏関係を探していてたどり着きました。私の母方が寒川で昼寝城主の子孫を名乗っているようです。また私の母の同級生に安富さんという方がいらっしゃいまして、「うちの家の方が上だ」とか言ってたとかなんとか。
私の実家のあたりに六車という珍しい姓があることは聞いたことがありました。
六車姓につきましては、近くに六車城があって、そこに拠っていた一族だという認識です。
私は岩沢と言いますが、これが不思議なことに香川県内の一つの村に集中していまして、関西には少ない苗字です。他には兵庫県の姫路のあたりに集中してます。
長尾町史を見て見ましても、いきなり江戸時代の庄屋として出てきましてそれ以前の記録が見当たりません。関東には多く、千葉、神奈川あたりにいるそうです。
そこで、関東から入部した安富氏との関わりが無いか調べようとしているところ、ここに行きあたりました。ルーツにミステリーがあるのは楽しいですね。
あと、このページの最初にある神奈川県の香川につきましては、私が調べた範囲では香川県とは無関係のようです。讃岐には元から香川郡という地名があり、細川氏とともに相模発祥の香川氏がやってきましたので、単なる偶然のようです。
相模一宮寒川神社には私も参ったことがあります。一説には寒川神社から讃岐寒川郡へ勧進され、それが地名となったのではないかというものもあるそうです。
また、寒川氏と関わりのあるかたのコメントも読ませていただきましたが、私の母方の寒川も真言宗です。家紋は抱き茗荷ですが。寒川氏流の宗旨は真言宗が主流なんでしょうか。
ひろさん、こんばんは。
そうですね。ルーツを解き明かしていくのも楽しいですね!
香川は香川氏がやってくる前からあったんですね!
香川氏もその縁に感動したかもしれませんね。
やはり、歴史のあるところは、名字で上か下とかあるんですなぁ。
北海道だと名字でどうこうということは無いので、それはそれで新鮮です。
六車も岩沢さんと一緒で、元は一部に集中していたはずなので、
寒川氏と岩沢氏の関係と安富氏と六車氏の関係と似ているのかもしれません。
そうそう、岩沢さんと言えば、私の知り合いは福島出身の岩澤さんでした。
こちらは関東の岩沢さんと関係があるのかな。
全然関係ないのですが、wikiで岩澤靖さんという方を見つけ、
まさに岩沢さんの一族と近しい感じかもと思いました。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A9%E6%BE%A4%E9%9D%96
北海道はそこそこ香川から移り住んだ人々が多いそうで、
坂東さんや植田さん、植松さんも見かけます。
寒川氏の真言宗については、私もよくわかりませんが、
香川で多いのは浄土宗らしいので、代々受け継がれてきた宗派のような気がします。
muguruma様。お返事ありがとうございます。
岩澤靖ですが、確証はないものの私と同族と思われます。この人物の出身の辺りにも大きな地所を持っていた岩沢さんが居りまして、その一族ではないかと思います。元は別の苗字だったのが、私の一族の岩沢さんと養子が行ったり来たりしている間に名字が岩沢になったのだと、その辺りに詳しい人に聞いたことがあります。ただ、私の近い親戚ではありません。
面白いのは札幌大学の理事長の二代が岩澤誠さんなのですが、この人は千葉県出身とのことで、別の岩澤さんみたいなんですね。
北海道は日本中のいろんなところから移住した方が多いので、そういうところと姉妹都市関係を結んでいるところが多いみたいですね。さぬき市も北海道内の三つの市町とそういう縁で姉妹都市となっているようです。それと、さぬき市出身の人は先ほどの岩澤靖だけでなく、日本ハムファイターズの関係者が居たりして北海道に縁がある人が多いみたいです。
今では名字で上だ下だというのは冗談の類と思いますが、それでも戦前辺りまでは家柄はかなり重視されていたみたいです。そのあたりのちょっとドロドロした話はたまに聞きます。
やはり歴史のあるところは色々な情報を持っていて、うらやましい!
でもドロドロしたところはあんまり関わりたくないかもです。
一年ぶりになります。
色々調べまして、自分の岩沢についてはかなりわかってきました。
Wikipediaにある岩澤靖氏についても関係がはっきりしました。が、関係が複雑で一言では言えません。
私の先祖の養子になった人が別の家を継いだのが靖氏の先祖とのことです。(わかりますか?)
話変わりまして、私の本家が並んでる(変な言い方ですが本家筋の家が何軒かあるのです)ところの間に、六車さんがいらっしゃるらしいです。
また、その近辺では多田さんが多いとも聞きます。こちらは清和源氏で、源頼朝の大本の先祖の本拠地から続いている家のようですが、この方たちも細川氏の入部とともに安富氏配下としてやってきた一族のようです。やはり摂津の一族ですので六車さんと一緒にやってきたのかもしれません。
さらに話変わりまして、國方様ですが、長尾町史には寒川の一族ではなく、菅原家の流れであると系図付きで説明されています。この辺りは突き合せないとよくわからないかもしれません。うちの実家のすぐ近所にも國方さんがいらっしゃいます。
ひろさん、こんばんは!
独自に調査を続けられているのですね!
素晴らしい!
岩澤靖氏の件、出たり入ったりという感じですね。
名前は関係あるけど、血のつながりはないという風に推測しています。
本家筋の話、長い歴史が積み重なると筋ができるということですか。
いやー、スゴい!北海道だと本家とは言いますが、筋まで生まれてないかもです。
多田氏は多田源氏なんですね。
ちょっとうる覚えなんですが、安富氏の四臣の一人が多田氏だった記憶があります。
いや瀧井氏だったかな。ちょっと忘れてしまいました。
六車氏もどこからやってきたのかは謎ですが、
多田氏が摂津なら六車氏も摂津の一族なのかもしれません。
六車氏は安富氏から別れた説もあったり、
六車という地名から名前をとった誰かの可能性もあるので、
よくわかっていないんです。
六車庄という土地を香西氏や安富氏が治めていたようなので、
そのあたりの関係者なのかなとも推測しています。