「六車」はどこから来たのか。自分の苗字を探す記録。

事実

六車宗旦

2013/05/01

六車宗旦の碑

六車宗旦の碑
六車宗旦の碑

今回、地元の方にお話を伺う機会があり、色々聞いてみるとなかなか興味深い情報が得られました。宗旦の命日の法要を10月の第3周に行なっているそうです。行う方々は、六車の親戚縁者含めて24家を3家8班に分かれ、毎年1班毎に準備を行う当番がやってくるそう。8年に一回という計算ですね。あと、24家中亡くなった年が1家だけ違うとも。宗旦は当時としては長生きしたようで、60か70近くまで生きたようです。

西教寺がお経を読むというのも調べた通りでした。ご本人は宗旦から数えて、13代目で、総本家というのは特に無いそうです。その他、安富氏から分かれた説について聞いてみたところ、「聞いた事がない。それは殿様」とのことでした。家紋の源氏車から源氏と関係あるんじゃないかとも。宗旦以前については伝わっておらず、宗旦から六車の歴史が刻まれているようです。また、地元の方やK,Mさんからの聞き取りによると、道路工事を行うため、別の場所にあった碑を現在の場所に移動させたとのことでした。

与田川たもとの六車宗丹のお墓

六車宗丹の墓
六車宗丹の墓
六車宗丹の墓
六車宗丹の墓

宗湛は朝満・宗丹・宗旦などとも言う。安富氏の重臣で、先祖は関東の豪族。宗湛の館は富田にあった。長宗我部に降伏後も雨滝城を保守していたが、秀吉に没収される。帰農したことは1603年(慶長7年)の富田中村検地帳からも明らか。富田八幡宮の神職六車家は宗湛の子孫と言われ墓があるほか、宗湛使用の鞍、鏃などを所蔵し、富田・津田にも宗湛の子孫という家が数軒ある。

誉水では、水主楠谷の六車家に宗湛の位牌と墓があり、与田川たもとには梶原景辰の墓と並び、正面に「光寿院善山居士」、側面に「正保元年八月十七日俗名宗丹」、「施主入野郷六車宗左衛門」と刻まれている。※正保元年は1645年。

出典:大内町史

2012/01/25 記述

六車朝満という名称も。1573年(文禄2年)9月7日に亡くなられている。元亀元年は1570年。元亀2年に雨滝城の城代になっているので、年代に齟齬があるかもしれません。文禄2年は1593年。

側面の文字

「幽栖院殿指月宗探大居士
雨滝城々代家老
元亀元年九月十五日落城
文禄二年九月七日死す
俗名六車宗旦」

コメント

  • mugurumaさん こんにちは。
    実は本日14時前からコメントしていたんですが、長文にもう終わりと思つた矢先に小指が、マウスの右クリツクに当たり、文章は消えてしまいました。
    引続き打ちたいのぜすが用事が出来ましたので、後日またコメントします。

    投稿者 K、M
  • K,Mさん、今晩は!
    事情をお聞きしただけに、大変だったでしょう。
    ブログ系に投稿する場合、入力中に不意に消えるケースがあるので、
    メモ帳などのテキストツールで文章を書いて、
    ブログにコピー&ペーストすると消えるリスクが低下しますよ。
    私もかつて経験し、なるべく文章をローカルに残しておくようにしています。

    投稿者 muguruma